第86話:先代の、二冊目
冬が明けた。
雪解けの水が、堤の下を、勢いよく流れていく。切れなかった。今年も、堤は保った。
ヴォルフ様は、この冬、三度、村へ頭を下げに行った。堤の普請を一年待ってくれ、と。
三度目に行った村では、村の年寄りが、こう言ったそうだ。
「――先代様は、こういうとき、来られませんでしたな。使いを寄越されました」
*
その日の夕方、ヴォルフ様が、執務室に入ってきた。手に、一冊、抱えている。
「エルナ」
「はい」
「――終わった」
その人は、机の上に、それを置いた。厚い、無骨な帳だった。表紙は、鹿革。角が、擦り切れている。
「一年ぶんだ」
わたしは、それを、見た。
(――ああ)
去年の初夏、結婚式の前の晩に、この人は、初めて自分で帳をつけた。式の費えの帳だ。あの日から、一年。
「――拝見しても?」
「……見るな、とは言えん」
*
一枚目を開いて、わたしは、思わず、息を止めた。
字が、大きい。
一行に、七つか八つしか、字が入っていない。一枚目の上のほうに、こう書いてある。
『春 秣 十二グルデン』
『春 蹄鉄 四グルデン』
『春 巡回 六日 兵 八人 賄い 三グルデン』
数字は、全部、漢数字だ。位取りは、ときどき間違っている。けれど、日付が、一日も、抜けていない。
「――ヴォルフ様」
「言うな」
「まだ、何も」
「字が大きいと言うつもりだろう」
「――いいえ」
わたしは、次の頁をめくった。
夏。灰の境の巡回。狼の頭数。村の見回り。堤の見分。
秋。刈り入れの立ち会い。蔵の検め。九つの村を、全部、自分で回っている。
冬。市の見回りが、増えている。「麦 十二枚」と書いた行の横に、小さく、こう添えてあった。
『高い』
「……ヴォルフ様。この『高い』は」
「見たままだ」
「――ええ」
わたしは、その二文字を指でなぞった。
わたしが四半期の帳で気づいたことを、この人は、市の板を見て、その場で、二文字で書いていた。
日付は、わたしが気づいた日より、十日、早い。
「――これを、いつ、書いておられたのですか」
「夜だ」
「毎晩?」
「毎晩は、無理だ」
この人は、少しだけ、ばつが悪そうにした。
「巡回に出ると、三日、四日、書けん。帰ってから、まとめて書く。……だから、日付だけは、先に、ぜんぶ引いておいた」
わたしは、頁を、もう一度、見た。
そう言われてみれば、日付の縦線が、先に、まとめて引いてある。線だけ引かれて、中身の入っていない日が、ところどころにある。
そして、その空いた日には、必ず、あとから、小さく何か書き足してある。
『巡回中』
『雪』
『書き忘れ』
(――書き忘れ、と、書いてある)
空欄と、書けなかったと書いた欄は、違う。
去年の夏、わたしは、それを説明しようとして、詰まった。呼吸と同じくらい当たり前のことで、当たり前すぎて、説明の道筋を歩いたことがなかったからだ。
この人は、誰にも教わらずに、それをやっている。
「ヴォルフ様。……この『書き忘れ』は」
「書かんと、あとで、自分が困る」
「なぜです」
「書いてないのが、忘れたのか、何もなかったのか、分からんからだ」
わたしは、しばらくこの人の顔を見ていた。
「――ヴォルフ様。あなた、いま、この国の財務寮の書式より、正しいことを、おっしゃいました」
「……そうか?」
「はい。とても」
*
その帳を、わたしは書棚の前まで持っていった。書棚のいちばん良い場所には、革表紙の古い帳が、一冊、置いてある。
先代辺境伯の帳だ。三十年前、賦課が四百から八百に倍増したとき、この人の父君が、つけ始めた帳。
そして、その隣に挟んである、一枚の紙。出せなかった抗議文の、下書き。
『本領への賦課は、算定の根拠を欠く。よって、検めを求める』
その裏に、こう書き添えてある。
『出せば、領が潰される。出さねば、わしが腐る』
わたしは、その隣の空いた場所に、鹿革の帳を、置いた。
二冊が、並んだ。
*
ヴォルフ様は、そこに、立っていた。しばらく、その二冊を、見ていた。
「――エルナ」
「はい」
「親父は、出せなかった」
「――ええ」
「俺は、出す側になった」
この人の声は、低くて、平らだった。泣いている声ではない。
「去年の春、御前で、親父の帳が読まれた。三十年、誰も読まなかった紙が、王の前で読まれた。……そのとき、俺は、何もしていない」
「そんなことは」
「していない。読んだのは、お前だ」
ヴォルフ様は、書棚に手を置いた。
「だが、あれから、俺は、自分の帳をつけ始めた。……なぜだと思う」
「――なぜです」
「親父の帳が、一冊しかなかったからだ」
わたしは、その横顔を見た。
「一冊で、終わっていた。続きが、なかった。……あれが、いちばん、こたえた」
*
「エルナ」
「はい」
「――お前が、そうしてくれた」
その人は、そう言った。いつもの、ぶっきらぼうな言い方だった。
「俺は、数字では戦えんと思っていた。親父が負けたから、俺も負けると思っていた。……そういう男が、いま、自分で秣の値を書いている」
「――ヴォルフ様」
「礼が、うまく言えん」
(――ああ、この人は)
一昨年と、同じ言葉だ。一昨年、この人は、それを、恥じるように言った。いまは、笑って、言う。
「だから、帳にした」
*
わたしは、その鹿革の帳をもう一度、手に取った。そして、一頁ずつ、丁寧に、めくっていった。
たぶん、この人は、わたしに検めてもらいたくて、持ってきたのだ。
言わないけれど。
秋の頁で、わたしの指が、止まった。
「――ヴォルフ様」
「なんだ」
「ここ」
わたしは、その行を、指した。
『秋 刈り入れ 立ち会い 九村 賄い 十二グルデン』
その下の合計が、十五グルデンになっている。
「三グルデン、多いです」
ヴォルフ様は、その行を、じっと見た。それから、耳のあたりを、掻いた。
「……そこは、見なかったことにしてくれ」
「いいえ」
わたしは、筆を取った。
「直します。……一昨年、あなたが、わたしに、この領の帳を全部お預けになった日に、わたしは申し上げました」
わたしは、その行の横に、小さく、正しい数を書き入れた。
「――一の位まで、合わせましょう。数字は、嘘をつきませんから」
ヴォルフ様は、うんざりした顔をして、それから、笑った。
「……お前は、二年経っても、そういうところが変わらんな」
「ええ。変わりません」
わたしは、その帳を閉じて、先代の帳の隣に、戻した。
二冊。
一冊目は、出せなかった帳。二冊目は、毎日、書かれた帳。
(――先代様。二冊目が、たまりました)
書棚の前の窓から、春の光が入って、二冊の背表紙を、並んで照らしていた。
*
その夜、寝室で、わたしは、ふと思い出して、聞いてみた。
「ヴォルフ様。あの帳、来年も、おつけになりますか」
「つける」
即答だった。
「三冊目だ」
「――三冊目」
「二冊で終わったら、また、途切れた帳になる」
この人は、天井を見たまま言った。
「うちの書棚に、あれが十冊並んでいたら。……次に辺境伯になる者は、たぶん、書くのが当たり前だと思うだろう」
わたしは、その言葉をしばらく噛んでいた。
(――次に、辺境伯になる者)
「ヴォルフ様」
「うん」
「十冊は、十年かかります」
「かかるな」
「……長いですね」
「長い」
この人は、そう言って、それから、こう続けた。
「だが、親父の一冊は、三十年、置いてあった。……三十年、誰も読まなかった帳が、去年、王の前で読まれた」
暗がりで、この人の息だけが、聞こえた。
「帳は、そういうものらしい。俺は、去年、それを、お前に教わった」
わたしは、天井の梁を見上げた。一昨年の冬、母の言葉を思い出した夜のことを、思い出した。
――帳はね、エルナ、つけ続けるものよ。帳は、忘れないから。
(……母さん)
わたしの隣に、いま、その言葉を、誰にも教わらずに理解した人が、寝ている。
一年つけ続けた帳が、書棚のいちばん良い場所に、並びました。
ヴォルフが帳をつけ始めた理由は、父の帳が「一冊しかなかった」からでした。三十年前に途切れた帳の続きを、息子が書いています。字は大きく、位取りは間違えていて、合計は三グルデン多い。それでも、日付は一日も抜けていません。市の板を見て「高い」と書いた日付は、エルナが四半期の帳で気づいた日より、十日早いのです。
次回・第87話「値をつけられない側に、立ちます」。最後の一手が、彼女自身に向きます。
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