第85話:三百人の、飯の種
蔵を開けて、七日で、勘定が出た。
「――ひと月と、半分でございます」
ギードが、板の前で、言った。
「領の備蓄と、館の分と、去年の余り。ぜんぶ合わせて、村の口を、ひと月と半分」
「冬は、まだ、ふた月半あります」
「――ございますな」
ギードは、板の前から、動かなかった。商会の倉から穀が来なくなって、市の麦は、三日で、また二割上がった。
上がった値でも、まだ買える人はいる。買えない人が、先に、痩せる。
(――ひと月ぶん、足りないわ)
わたしは、そろばんに手を置いた。足りない量を、ほかの領から買えばいい。理屈は、それだけだ。
問題は、どこの誰から、どうやって、この冬のうちに、というところにある。
*
ヴェント領のコンラートさんへは、その日のうちに人を出した。返事は、五日で来た。
『ご用命、ありがたく存じます。ですが――手前どもの倉には、いま、ろくに穀がございません。恥ずかしながら、この二年、仕入れる元手がございませんで』
わたしは、その手紙を、しばらく持っていた。
(――そうだったわ)
ヴェントは、去年の帳式の布告で、いちばん痛んだ領だ。取り漏らし狩りで商いが萎んで、まだ戻っていない。
儲かる土地に、金は寄る。寄らない土地からは、引いていく。そのことを、わたしは、この冬、両側から見せられている。
*
その晩、わたしは、帳所へ行った。夜の講義が終わったところで、板の前に、ゲオルクが残っていた。
炭で汚れた手を、布で拭いている。
「――財務官様。お顔の色が」
「そう見えますか」
「見えます。二十二年、旦那衆の顔色を読んで生きてまいりましたので」
わたしは、思わず、笑ってしまった。そして、正直に話した。ひと月ぶん足りないこと。ヴェントも駄目だったこと。
ゲオルクは、黙って、最後まで聞いた。そして、意外なことを聞いた。
「――どこの領から、買いたいとお思いで?」
「南は、商会の縄張りです。東はヴェント。北は、灰の境です」
「西は」
「西は……ザントレヒト、ミュール、それから、ホルツ」
「ホルツ」
その人は、そこで、初めて顔を上げた。
「ホルツの肝煎りは、去年、こちらで習っていった御仁でございますな」
「――ええ」
「わたくしが、代書を三度売った村でもございます」
*
翌朝、ゲオルク・キーファーは、旅の支度をして、門に立っていた。
「――どちらへ」
「西でございます」
その人は、いつもどおり、深く頭を下げた。
「二十二年、請負の帳を書いてまいりました。差配の下におった者は、いま、方々に散っております。……三百二口の、下の者でございます」
「――名前の残っていない、七百人」
「そのうちの、五十人ばかりは、わたくしが顔を存じております」
ゲオルクは、荷を担ぎ直した。
「あの者らは、いま、どこの村でも、蔵の中身をいちばんよく知っております。取り立てに歩いた者は、その村に何俵あるかを、体で覚えておりますので」
(――ああ)
「――穀は、市になければ、ないのではございません。誰かの蔵にあります。市に出ていないだけで」
「キーファーさん」
「はい」
「……その方たちは、あなたに、口を利いてくださいますか」
その人は、少しだけ、困った顔をした。
「――どうでございましょうな。恨まれておるやもしれません」
*
十一日後。
門に、荷馬車が、一台入ってきた。その次の日に、三台。その次の日に、五台。
麦。豆。乾し肉。塩漬け。粟。どれも、大商会の倉から来た荷ではなかった。一台ずつ、別の村から、別の道を通って来ている。
御者は、みんな、中年から初老の男たちだった。
「――ホルツから参りました。肝煎りの、言いつけで」
「ザントレヒトの、蔵番でございます。……昔、請負の下で、帳を書いておりました」
「ミュールです。うちの村は、今年、余っておりましてな。財務官様のところが困っておられると聞いて」
わたしは、門の前で、その一台ずつを、迎えた。そして、その全員に、同じことを聞いた。
「――どうして、来てくださったのですか」
答えは、ばらばらだった。
「肝煎りが、去年、こちらで習わせてもらったからと」
「うちの村に、算定書を書ける者が、三人できました。四グルデン、浮きましたので」
「――キーファーさんに、頼まれましたんで」
そして、三日目の夕方に来た、いちばん年かさの御者は、こう言った。
「昔、わし、この辺の村へ、取り立てに来ましてな」
その人は、帽子を取った。
「兵の後ろで、蔵の袋を数えて、書いておりました。……あの頃の村の顔を、いまでも、覚えとります」
*
十七日で、ひと月ぶんが、埋まった。わたしは、帳所の帳の右側に、その日、十九行、書いた。
村の名。荷の中身。俵の数。そして、その荷を回してくれた人の名前。
書き終えて、わたしは、その見開きを、しばらく眺めていた。去年の秋、わたしは、大きな紙に、千九十六の名前を書いた。
潰した仕組みの、下にいた人たち。名前の残っていない七百人。そのうちの、五十人ばかりに、この人が、会いに行った。
(――網だわ)
商会は、金で、この土地の物を押さえた。こちらの手にあるのは、教えた分だけ広がった、人の網だ。
金の網は、速い。一年で、宿六軒と倉四棟を押さえた。人の網は、遅い。半年かけて、五十二人と、十九台の荷馬車になった。
けれど――片方は、締められる。もう片方は、締めようがない。
*
ゲオルクが辺境へ帰ってきたのは、二十日目だった。痩せて、日に焼けて、靴が、ぼろぼろだった。
わたしは、門で、その人を迎えた。
「――キーファーさん」
「ただいま、戻りました」
「……十九台、来ました」
「二十一台のはずでございますが」
「二台は、まだ、道の途中です」
その人は、頭を掻いた。それから、ゆっくり、荷を下ろした。
「財務官様。……秋に、わたくしが、失礼なことを申しました」
「――ええ」
「潰すのは上手いが、作れるのかね、と」
ゲオルク・キーファーは、そこで、初めて、まっすぐこちらを見た。腰の低い笑い方ではなかった。
「――作れたじゃないか、あんた」
*
その言葉を聞いたとき、わたしは、返す言葉を、一つも持っていなかった。
秋には、答えられなかった。
冬の入り口には、一行だけ答えた。そして、いま、この人が、自分で答えを持ってきた。
「……キーファーさん」
「はい」
「わたしが作ったのでは、ありません」
わたしは、その、ぼろぼろの靴を見て、言った。
「――あなたが、歩いてくださっただけです」
「いいえ」
その人は、首を振った。
「わたくしは、歩いただけでございます。……歩いた先の村に、こちらで習うた者がおったから、話が通りました」
そして、こう続けた。
「あれは、財務官様が、半年前に蒔かれたものでございます」
半年前に蒔いたものが、いちばん要るときに、荷馬車になって帰ってきました。
商会の金の網は、一年で宿六軒と倉四棟を押さえます。速い。こちらの人の網は、半年かけて、五十二人と十九台になりました。遅い。ですが、金の網は締められて、人の網は締めようがありません。そして、秋の問いに答えを持ってきたのは、問うた本人でした。
次回・第86話「先代の、二冊目」。一年つけ続けた帳が、一冊、たまります。
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