第90話:育てる帳
帳所の、最初の卒業の日は、初夏だった。一年前、この丘の下で、婚礼の鐘の代わりに、そろばんの玉が鳴った。
今日は、講堂の前庭に、長机が出ている。
卒業といっても、大したことはしない。名前を呼んで、修めの証しの紙を一枚渡すだけだ。紙には、八つの欄の見本が刷ってある。
十七人が、名を呼ばれた。
ホルツの若い衆。ザントレヒトの蔵番。修道院の会計役。ヴェントから来た二人。アイヒベルクの子が、三人。
そして、いちばん最後に。
「――ニコ」
その子は、前へ出てきた。九つ。背が伸びて、去年の上着は、もう袖が短い。
わたしは、紙を渡す代わりに、一枚の書付を、読み上げた。
「グラウフェルト辺境伯領、財務官補。……本日より」
前庭が、割れた。
マルタが、いちばん大きな声を上げた。ヤンが、後ろで、めずらしく口笛を吹いた。ゲオルクが、袖で目のあたりを拭いている。ギードは――もう、朝から目が赤い。
*
式のあと、わたしは、その子を、帳所の隅へ呼んだ。
「ニコ」
「なに」
「――これを、あなたに」
わたしは、布の包みを、机の上に置いた。その子は、包みを開けて――そのまま、固まった。母の、そろばんだった。
玉が二つ、欠けている。枠の角が、丸くなっている。三十年、二人の女が使ってきた道具だ。
「……お姉ちゃん」
「これはね、母から、わたしへ来ました」
わたしは、その包みを、少しだけ、押した。
「――次は、あなたへ」
「え。……え、でも」
その子は、両手を、後ろに引いた。
「これ、お姉ちゃんの、いちばん大事なやつだろ。査定のときも、御前のときも、ぜんぶ、これだったろ」
「ええ」
「じゃあ、だめだよ。おいら、自分のがあるもん」
「あなたのは、玉が三つ、欠けているでしょう」
「……二つは、おいらのせいじゃない」
わたしは、笑った。そして、その手を取って、包みを、握らせた。
「ニコ。わたしは、新しいのを買います」
「――買う?」
「ええ」
わたしは、そう言って、少しだけ、胸の内で数えた。
(そろばん一丁、銀貨十五枚)
一昨年のわたしなら、この額で、二日、迷った。
「……ようやく、買えるようになりましたから」
*
その日の夕方、わたしは、一年の決算を締めた。執務室の机に、二枚の紙を並べる。
一枚は、領の帳。
――年の上がり、過去最高。帳所の費え、二百グルデン。堤の普請、一年繰り延べ。差し引きの余り、二百六十グルデン。
もう一枚は、去年の冬に作った、あの大きな紙だ。左に、領の総額。右に、一人あたりの手取り。
去年の冬、右側は、一割減だった。わたしは、そろばんに手を置いた。
麦の値、十枚に戻った。地代算定書で、値上げは三戸で止まった。宿と倉の共同出資の口が、四十一口。上がりの分けが、初めて、村へ回った。
そして――村の若い衆の日当が、二割、上がっている。働き口を選べるようになったからだ。
ぱちん、と玉を弾く。
一人あたりの手取り。
去年より――
「……五分、増」
わたしは、声に出して、言った。小さい。たったの五分だ。領の総額の伸びに比べたら、ないに等しい。
けれど。
(――両方が、同じ向きを、向いたわ)
一昨年から去年まで、この領は、取り返す帳だった。取り返した分は、村へ戻った。総額と一人あたりが、同じ向きに動いた。
去年、豊かになり始めた途端、その二つは、逆を向いた。今年、また、同じ向きに戻った。
戻したのは、書式一枚と、共同出資の四十一口と、二百三十七人の腕だ。
*
(――これは)
わたしは、そろばんの玉を、上げたまま、しばらく、見ていた。
去年の秋、わたしは、この言葉を、一度だけ使った。良い法は、ただでは回らない、と言ったあの広場で。
去年の夏、この言葉を、過去形で言った。丘の上で、夫の顔を見て。
その過去形は、もう、使わない。あれは、締め切った帳簿の答えだ。いまわたしの手元にあるのは、締めていない帳だ。
だから、この言葉は、こうなる。
「――これは、育てられます」
*
日が傾いてから、わたしは、丘に上がった。あの丘だ。求婚を受けた丘。婚礼を挙げた丘。
麦が、青い。
丘の下では、帳所の窓が、まだ明るい。ニコとヤンが、明日の講義の順番で、また言い合っているのだろう。
「――ここにいたか」
ヴォルフ様が、上がってきた。手には、鹿革の帳。二冊目の、続きだ。
「――もう、三冊目をお始めに?」
「今日から書いた」
その人は、隣に腰を下ろした。
「一行目に、何と書いたか、聞かんのか」
「伺います」
「『帳所 卒業 十七人』」
わたしは、思わず、笑った。
「――費えの欄には」
「二百グルデン。堤は、来年」
「実りの欄には」
「――十七」
その人は、そう答えた。
「人数を、実りの欄に書いた。……間違っているか」
「いいえ」
わたしは、首を振った。
「――一つも」
*
風が、青い麦の穂を、渡っていく。一年前、この丘で、わたしは、母のそろばんを弾いて、帳を締めた。
あの日、左側は、一つも増えていなかった。婚約者。家。居場所。捨てられた夜に失ったものは、あの日から、一つも増えていない。
右側だけが、増えた。
(――今日は、締めないの)
わたしは、丘の下を見た。明かりの灯った講堂。九つの村の煙。街道を行く荷馬車。市の広場の、月に一度の台。
去年の帳は、締め切って、動かない答えを出した。今年の帳は、締めない。締めないから、来年、まだ書ける。
「ヴォルフ様」
「うん」
「来年の帳は、何をつけましょうか」
この人は、少し考えて、答えた。
「――決まっている」
「はい」
「増やす帳だ。……去年、そう言った」
「ええ。わたしは、育てる帳、と申し上げました」
「同じだろう」
「違います」
わたしは、そう言って、この人の肩に、少しだけ、寄りかかった。
「増やすのは、数です。育てるのは、――人です」
*
丘の下から、そろばんの音が聞こえてきた。ニコが、新しく譲られたそろばんを、誰かに見せびらかしているのだろう。
わたしは、その音を聞きながら、ふと、来年の帳の欄を、頭の中で組み立て始めていた。
帳所の卒業生。十七人。来年は、たぶん、五十人。その者たちが、どこの村で、何を書くのか。
(――全部は、追いきれないわ)
追いきれないほうが、いい。追いきれるうちは、まだ、わたしの帳だ。追いきれなくなって初めて、それは、この国の帳になる。
「――ヴォルフ様」
「うん」
「来年の帳には、もう一行、増えそうです」
「――そうか」
この人は、そう答えて、それから、二つ数える間を置いて。
「……もう一行?」
わたしは、答えなかった。答えずに、丘の下の明かりを、見ていた。
夕日が、麦の穂の先を、金色にしている。
*
婚約破棄は、黒字になりました。
そして、その黒字は、この一年で、二百三十七人の腕になり、十七人の卒業になり、月に一度の台の上の声になりました。
わたしの帳は、まだ、締まっていません。左に費えを、右に実りを。
どちらの側にも、嘘を書かずに、来年も、その次の年も、つけ続けます。
――帳は、忘れませんから。
<第三部 完>
『辺境税務官は婚約破棄を黒字にする』第三部「豊かさの設計」、これにて完結です。最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
第三部は、勝ったあとの話でした。制度は直った。それを回す人は、どこから来るのか――その一点だけを、三十話かけて追いかけました。倒すべき悪人がいない話は、書いていていちばん怖い話でもありましたが、代書屋も、女伯も、商会の会頭も、誰一人潰さずに終われたことを、いま、少しほっとしながら書いています。潰した数は三百二で、作った数は、数えきれなくなりました。
そして、母のそろばんが、次の手に渡りました。第一話から、査定のたびに必ず出てきたあの道具の行き先を、ずっと決めていました。玉が二つ欠けたまま、次の三十年へ行きます。
物語は、ここでいったん、幕です。ですが、あの帳所からは、来年、五十人が出ていきます。あの子たちが、どこで、何を書くことになるのか。エルナには、もう追いきれません。追いきれなくなったところから先が、たぶん、次のお話です。
ここまで走り続けられたのは、毎日の更新を、ブックマークと★評価と感想で支えてくださった皆さまのおかげです。この一年ぶんの決算に、もし黒字をつけていただけるなら――ブックマーク・★評価で、そっと帳簿の右側に書き添えていただけると、作者のこの上ない励みになります。
それでは、また、次の決算で、お会いしましょう。
白雪 こよみ




