第81話:その黒字は、誰の食卓ですか
冬の四半期の決算は、辺境の始まって以来の数字になった。わたしは、それを、三度、検算した。
「――ギード。上がりの合計、もう一度」
「四度目でございますぞ」
「お願い」
老副官は、ため息をつきながら、板に書いた数字を読み上げた。
「賦課を納めたのちの、領の手元。四半期で、百四十グルデン」
(――百四十)
一昨年、この領の年の余りは、百二十グルデンだった。その額を、いまは、三月で超えている。
内訳も、みごとだった。畑の上がりも、交易の歩合も増え、宿の運上は倍、市の運上は三倍になっている。
「めでたいことでございますな」
「……ええ」
わたしは、そろばんの玉を、じっと見ていた。数字は、一つも、嘘をついていない。
*
その日の夕方、わたしは、ヴェルナーさんの家へ行った。
一昨年の秋、逃散した先から帰ってきた一家だ。あの空き家に灯りが戻った日のことを、わたしは、たぶん、一生忘れない。
「――財務官様! こんな家に、まあ」
奥さんが、慌てて前掛けを外した。
「お邪魔をいたします。……夕餉時に、申し訳ありません」
「いえいえ、なんの」
食卓が、目に入った。麦粥。豆。塩漬けの菜。それだけだ。一昨年、初めてこの家に来た日と、ほとんど同じだった。
いや――去年、来たときのほうが、良かった。去年は、乾し肉があった。子供の茶碗に、卵が乗っていた。
「……奥さん。今年の麦は」
「豊作でしたよ!」
奥さんは、明るく答えた。
「うちは、売る側ですからね。売った銭は、去年より、二十グルデンも多かったんです」
「――二十グルデン」
「ええ、旦那が飛び上がってました」
「では」
わたしは、その食卓を、見ないようにしながら、聞いた。
「……その二十グルデンは、いま、どちらに」
奥さんの顔から、ゆっくり、笑いが引いた。
*
「豆が、上がりましたでしょう」
しばらくして、その人は言った。
「油も、塩漬けも。……うちは、麦は作りますが、豆は買うんです」
「ええ」
「あと、地代が」
「――地代」
「去年まで、村に納めてたんです。今年から、よその旦那に。……ひと月ぶんが、一・五倍になりました」
わたしは、頭の中で、そろばんを弾いた。売った麦、二十グルデン増。豆と油の値上がりで、十二グルデン減。
地代の値上がりで、九グルデン減。
「……一グルデン、足りませんね」
「へえ。そうなんです」
奥さんは、笑った。困ったときに笑う人だ。
「豊作だったのに、去年より、一グルデンぶん、暮らしが薄いんです。……あたしゃ、算術ができませんから、なんでか、分からなくて」
帰り道、わたしは、村を、ゆっくり歩いた。一昨年、この道には、空き家が六軒あった。
いまは、一軒もない。それどころか、道の端に、新しい家が三軒建っている。真新しい板壁。よその領の造りだ。
「――財務官様」
村の井戸端で、女衆が三人、こちらを見ていた。
「お帰りですか」
「ええ。……あの、新しいお家は」
「よそから来た衆ですよ」
いちばん年かさの人が、桶を置いた。
「宿で働いてる若いのが、二人。あと、荷馬車の御者が一人」
「――村には、なじんでいますか」
「なじんでますよ。悪い衆じゃありません。うちの倅より、よっぽど気が利く」
「そう」
「ただねえ」
その人は、少しだけ、声を落とした。
「……あの衆、うちの村の井戸を使うでしょう。井戸の普請は、村の割り勘なんです。あの衆は、村の割り勘に、入ってないんですよ」
「入っていない」
「地代は、よその旦那に払ってますからね。村には、一銭も」
(――ああ)
わたしは、その井戸を見た。
石を組んだ、古い井戸だ。一昨年、余りの百二十グルデンを三つに割ったとき、その一つが、これになった。
治水と、街道と、備蓄。あのとき、村の割り勘で足りない分を、領が足した。
(村の割り勘という帳が、この村には、ずっとあったのだわ)
そして、その帳の外にいる人が、増えている。
*
その晩、館の執務室で、わたしは、大きな紙を広げた。そして、真ん中に、線を引いた。左に費え、右に実り――ではない。
今度は、左に「領の総額」、右に「一人あたりの手取り」と書いた。左側に、書き込んでいく。
四半期の黒字、百四十グルデン。過去最高。市の運上、三倍。宿の運上、二倍。地代の上がり、増加。右側に、書き込んでいく。
麦の値、五割高。豆、四割高。宿代、倍。地代、一・五倍。ヴェルナー家の手取り、前年比――わたしは、そこで、筆を止めた。
(――一人あたりを、わたしは、一度も、計算していないわ)
この二年、わたしがこの領で見ていたのは、領の帳簿だった。
賦課を減らす。中抜きを止める。交易を通す。余りを配る。全部、領の総額の話だ。総額が増えれば、みんなが豊かになる。
そう思っていた。そう思って、疑ったことがなかった。
(――去年までは、それで、合っていたのよ)
取られすぎていたものを、取り戻す話だったからだ。取り戻した分は、村へ戻る。総額と、一人あたりが、同じ向きに動いた。
いまは、違う。
外から金が来て、総額が増える。同じ金が、値を押し上げて、一人あたりを減らす。
(――同じ一つの流れが、左と右で、逆を向いている)
*
わたしは、紙の上のほうに、筆を置いた。
そして、書いた。
去年の春、御前決算の場で、わたしが、王国財務卿に投げた問い。
――その黒字、誰の赤字ですか。
三十年、この国の黒字は、地方の赤字の付け替えでできていた。わたしは、それを、三冊の帳簿で立証した。
いま、わたしの手元に、過去最高の黒字がある。わたしは、その下に、新しい一行を書いた。
――その黒字は、誰の食卓ですか。
書き終えて、しばらく、その二行を並べて見ていた。
去年の問いには、相手がいた。三十年、国の帳を握ってきた男が、盤の向かいに座っていた。
今年の問いには、相手が、まだ見えない。
(――誰も、悪いことをしていないのだもの)
村は、地代の権を、自分の意志で売った。売った銭で、屋根を直した家もある。商人は、正当な値で買った。
市は、人が増えた分だけ、値を上げた。麦を高く売れた家は、喜んでいる。どこにも、罪がない。
どこにも罪がないのに、ヴェルナー家の膳から、一グルデンが消えている。
(――こういう相手と、わたしは、戦ったことがないわ)
*
夜半、ヴォルフ様が、湯呑みを二つ持って、執務室に来た。
「――何を書いている」
「勘定を」
「めでたい勘定だと、ギードが言っていたぞ」
「ええ。めでたい勘定です」
わたしは、その大きな紙を、この人のほうへ向けた。
「左側は」
「読める。上がった、ということだろう」
「はい。過去最高です」
「右側は」
「――去年より、薄いのです」
ヴォルフ様は、その二つを、しばらく見比べていた。そして、思いがけないことを言った。
「エルナ。……俺の親父の代は、どっちも薄かったな」
「――ええ」
「領も薄い。村も薄い。分かりやすかった」
この人は、湯呑みを置いた。
「いまは、片方だけ太っている。……これは、たちが悪いぞ」
「なぜ、そうお思いに?」
「太っているほうを見て、みんな、うまくいっていると思うからだ」
わたしは、筆を置いた。この人は、式を読めない。
けれど、この一年、わたしが見せる紙を、必ず一度、逆さにせずに読んでくれる。そして、ときどき、こういうことを言う。
*
翌朝、門番が、駆け込んできた。
「――財務官様! 南の道から、荷馬車が、九台!」
「九台」
「一台目に、旗が立っております。……帆の絵の、旗で」
わたしは、外套を取った。門を出ると、冬の日を受けて、九台の荷馬車が、整然と並んでいた。
先頭の車から、仕立てのよい外套を着た男が降りてくる。五十がらみ。背筋がまっすぐで、日に焼けていて、目が、笑っている。
「――グラウフェルト辺境伯領の、財務官様でいらっしゃいますな」
その人は、帽子を取って、深すぎず浅すぎない、みごとな辞儀をした。
「ブラント商会、ラウレンツ・ブラントと申します」
そして、後ろの九台を、軽く手で示した。
「――ご挨拶が、遅くなりました」
過去最高の黒字と、去年より薄い食卓が、同じ冬に来ました。
第二部の御前決算で、エルナは財務卿に「その黒字、誰の赤字ですか」と問いました。同じ問いの形が、今度は自分の帳簿に返ってきます。取り戻す話のあいだは、総額と一人あたりが同じ向きに動きました。豊かになり始めた途端、その二つは、逆を向きます。ヴェルナー家の一グルデンは、そのいちばん小さな現れです。
次回・第82話「私は、法を一つも破っておりません」。九台の荷馬車の主が、館に上がります。
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