第80話:帰ってきた弟子は、先生でした
辺境へ帰り着いたのは、冬の初めの、よく晴れた日だった。門をくぐると、館の前に人がいなかった。
いつもなら、ギードが出てくる。マルタが厨房から顔を出す。厩の若い衆が馬を取りに来る。それが、誰もいない。
「――どうしたのかしら」
「向こうだ」
ヴォルフ様が、顎で、東を示した。帳所のほうから、声がする。
大勢の声だ。
*
帳所の窓は、四つとも、明るかった。わたしは、外套のまま、そちらへ歩いた。近づくにつれ、声の中身が、聞き取れてくる。
「――だからね、この欄は、去年の自分とけんかするところなの!」
(リーゼだわ)
「そうそう! で、けんかに負けても、ちゃんと書く。書かないと、来年、誰とけんかしていいか分かんないから!」
(――ニコ?)
わたしは、思わず、足を止めた。ニコは、隣にいる。馬車から降りたばかりで、まだ、わたしの後ろで襟巻を巻き直している。
「お姉ちゃん、どうしたの」
「……いえ」
わたしは、そっと、扉の隙間から中を覗いた。
*
四十一の席が、埋まっていた。いや、四十一では、足りていない。壁際に立っている者が、七、八人。
板の前に立っているのは、ヤンだった。無口な、鍛冶屋の三男坊。板に、間違えた式と、正しい式を、並べて書いている。
「……ここ、間違えやすいです。おれも、三回、間違えました」
そして、彼の隣に、もう一人いた。炭を持って、ヤンの書いた式の上に、麦の絵を足している。
痩せて、背が高く、上着は古いがよく手入れされている。腰の低い、四十がらみの男。
「――旦那がた。ここは、こう考えますと、覚えやすうございます。この四角は、麦を入れる箱でございます」
ゲオルク・キーファーだった。
*
わたしは、扉を、押していた。自分が押したという自覚は、あまりなかった。
「――財務官様!」
いちばん先に気づいたのは、ヨストさんだった。
広間の空気が、いっせいに動いた。四十人が振り返り、ギードが慌てて立ち上がり、マルタが「お帰りなさいまし!」と怒鳴った。
そして、板の前の二人が、こちらを向いた。ヤンは、ぺこりと頭を下げた。
ゲオルクは――炭を持ったまま、しばらく、動かなかった。
*
騒ぎが一段落したあと、わたしは、ヤンを廊下へ呼んだ。
「ヤン。……あなたが、板を回していたの?」
「はい」
「四十人を?」
「ニコがいないと、午前が空くので」
その子は、いつもの無口な顔で、当たり前のように言った。
「リーゼと、二人で分けました。それでも、足りなくて」
「――それで、あの方に」
「はい」
ヤンは、少しだけ、目を伏せた。
「勝手をしました。すみません」
「怒っていないわ」
「……あの人、うまいです」
その子は、そう言った。
「おれより、ずっと。おれ、二十二年書いてきた人の説明を、初めて聞きました。……欄の順番に、意味があるって、知りませんでした」
わたしは、この子の顔を、しばらく見ていた。
夏に、この子は、月二グルデンでその人のところへ行くかどうかで迷った。
行かなかった。
そして冬に、その人を、自分の板の前に立たせている。
「ヤン。あなた、あの方に、日当のことは」
「聞きました。要らないって言ってました」
「――そう」
「でも、それ、良くないと思います」
その子は、はっきり言った。
「ただで働く人がいると、次の人も、ただになるので」
(――この子は)
わたしが夏に言ったことを、この子は、一度も忘れていない。
*
その晩、わたしは、帳所の隅で、その人と向かい合った。蝋燭は、一本だけ。
「――キーファーさん」
「ご無礼を、いたしました」
彼は、いつもどおり、深く頭を下げた。
「留守中に、勝手に、板の前に立ちました。老副官様が『まあ、追い出すのも角が立つ』と仰せでしたので、つい」
「いつから、いらしたのですか」
「――ひと月ほど前でございます」
「ひと月」
「はじめは、隅で聞いておりました。手前は、二十二年、書式を書いてまいりましたから、あの子らの教え方が、面白うございましてな」
ゲオルクは、少し、笑った。
「わたくしなど、十年かかって、村の者に一つも渡せませんでした。あの八つの坊主は、四半刻で渡します。……何が違うのか、知りたくなりまして」
「――分かりましたか」
「分かりました」
彼は、あっさり答えた。
「わたくしは、渡さないほうが、得だったのでございます」
*
しばらく、二人とも、黙っていた。蝋燭の芯が、じじ、と鳴った。
「秋の広場から、南の道を、三度回りました」
やがて、ゲオルクが言った。
「一度目は、まだ、注文がございました。二度目は、半分に。三度目は――」
「――ええ」
「肝煎りが、こう申しました。『先生、うちの村に、いま、書ける者が二人おりますで』」
彼は、手のひらを、上に向けた。
「まことに、めでたいことでございます」
「……キーファーさん」
「恨みは、ございません。これは、本心でございます」
彼は、まっすぐわたしを見た。
「ただ、わたくしは、四十三でございます。書くことしか知りません。畑は持っておりません。……秋に、あなた様に問うたことの答えを、そろそろ、聞かせていただきたく」
作れるのかね、と。あの日、南の道へ出ていく背中が、そう言った。
*
わたしは、帳所の帳を、机に置いた。見返しの、あの欄を開く。
『作った数』。
秋には、四つしか書けなかった欄だ。
いまは、十一。
ニコ。ヤン。リーゼ。マルタ。ヨスト。ホルツの肝煎り。ブラウ村の二人。修道院の会計役。テオドール。そして――名前のない一行が、一つ。
「――キーファーさん。ここに、空けてある行があります」
わたしは、その一行を、指で示した。
「先月、あなたが板の前に立ち始めた日から、空けてあります」
ゲオルクの目が、その一行に落ちた。
「……老副官様が、お知らせに?」
「毎日、書付が来ておりました。『例の代書屋が、今日も来ております』と」
「……」
「――帳所の教え手のお役、空いています」
わたしは、そう言った。
「二十二年、書式を書いてきた腕は、この地方に、あなた以外にありません。教え手としては、たぶん、わたしより上です」
ゲオルク・キーファーは、そこで、初めて、腰の低さを忘れた顔をした。口を、半分開けて、突っ立っていた。
「――ただし」
わたしは、指を、一本立てた。
「条件が、一つあります」
「……なんなりと」
「手数料は、取らないこと」
*
長い沈黙が、あった。やがて、その人は、笑い出した。
腰の低い笑い方ではなかった。声を出して、肩を揺らして、四十三の男が、少年みたいに笑った。
「――これは、これは」
「お受けになりますか」
「受けます」
ゲオルクは、袖で、目のあたりを拭った。
「二十二年、請負の帳を書いて、一年、代書で稼いで。……四十三で、初めて、手数料を取らん仕事をいたします」
「俸給は、出ます。年に二十グルデン」
「――半分で、結構でございます」
「いいえ」
わたしは、はっきり言った。
「ただ働きの人を置くと、この学び舎は、次の誰かにも、ただ働きをさせるようになります。……回し費えは、きちんと払います」
*
帳所の帳の、空けておいた一行に、わたしは、その名を書いた。
――ゲオルク・キーファー。
書き終えて、顔を上げると、窓の外に、雪が降り始めていた。
板の前では、ヤンとニコが、明日の講義の順番で、言い合っている。
(――潰した数、三百二)
(作った数、十二)
(まだ、まるで足りないわ)
けれど、秋には、答えられなかった。いまは、一つ、答えられる。
「――キーファーさん」
「はい」
「作れるのかね、と、お聞きになりましたね」
その人は、板の前の二人を見たまま、答えた。
「……お聞きしました」
「作れます」
わたしは、帳を閉じた。
「――遅いですけれど」
秋に答えられなかった問いに、冬の入り口で、一行だけ答えが出ました。
ゲオルクは、実は、ひと月前から帳所の隅に座っていました。彼が知りたかったのは、八つの子が四半刻で渡せるものを、自分は十年渡せなかった理由です。そして、自分で答えを見つけます。「渡さないほうが、得だった」。この人が敵でいられたのは、そこまででした。
次回・第81話「その黒字は、誰の食卓ですか」。冬の客が、館に着きます。
ここから、第三部の後半に入ります。二十二年、書式を書いて食べてきた人が、手数料を取らない仕事を引き受けたところに、うなずいてくださった方――ブックマーク・★評価で、そっと押していただけると、とても嬉しいです!




