第79話:読み上げの市、立ちます
翌日、わたしたちは、館の客間から一歩も出なかった。出なかった、というより、出る必要がなかった。
館の中を、足音が、行き来していた。
朝、女伯が蔵へ入った。昼、帳が運ばれた。午後、家令が呼ばれた。夕方、家令の部屋から、書付の束が運び出された。
そのあいだ、わたしは、客間の椅子で、ニコの留守帳を清書していた。
「お姉ちゃん。手伝わなくていいの?」
「――ええ」
「けど」
「あの方の家の帳よ。あの方が、開くの」
*
夜になって、女伯が、自分で客間の扉を叩いた。従者も、扇も、連れていなかった。
「――グラウフェルト様」
その声は、昼のあいだに、十も年を取ったようだった。
「フーゴは、四十年、うちの帳を書いておりました」
「はい」
「賦課の算定は、いつも、去年の数で書いておりましたの。実りが増えた年も、去年の数で」
女伯は、扉のところに立ったまま、続けた。
「増えた分は、王家へは、届きません。届かない分は――蔵から出て、あの者の手を通って、外へ出ておりました」
「……いくら、でしたか」
「年に、四十グルデンほど」
その人は、そこで、初めて、椅子に腰を下ろした。
「七年、でございましたわ。二百八十グルデン」
(――二百八十)
わたしは、その数字を、口の中で、繰り返した。奇妙な符合だった。この国が検分使に払わなかった額と、同じだ。
「グラウフェルト様。あの者は、こう申しました」
女伯は、手を、膝の上で組んだ。
「――奥様は、お読みになりませんでしたので、と」
*
「アイヒベルク様」
わたしは、その人の前に、椅子を寄せた。
「あの家令は、罰せられます。それは、この領の裁きです。……ですが、その前に、一つだけ」
「なんでございましょう」
「――七年ぶんの、増えた実り。あれは、本来、どこへ行くはずでしたか」
女伯は、顔を上げた。
「……王家へ」
「いいえ」
わたしは、首を振った。
「増えた実りは、まず、増やした人のものです。それから、賦課の分だけが、王家へ行きます」
「――村の者の」
「はい」
その人の目が、揺れた。
「フーゴが取ったのは、王家の分ではありません。あの領の村の、七年ぶんの、豊作の喜びです」
*
家令のフーゴには、翌朝、一度だけ会った。会いたいと言ったのは、向こうだ。
書付を取り上げられ、部屋を検められ、館の隅の小部屋に移されていた。それでも、身なりは、きちんとしていた。
「――辺境伯領の、財務官様」
「はい」
「一つだけ、申し上げたいことがございます」
その人は、四十年の家令らしく、みごとな辞儀をした。
「わたくしは、この家を、潰しませんでした」
「――ええ」
「三十年前、賦課が倍になりましたとき、この家は、傾いておりました。わたくしが、蔵の実りを少し外へ回し、その銭で、王都の紋章院と、財務寮の下役に、付け届けをいたしました。おかげでこの家は、七年、一度も査察を受けておりません」
「……その付け届けの分と、あなたの懐に入った分は、同じですか」
沈黙が、あった。
「――同じでは、ございません」
「では、いくらでしたか」
「……年に、四十のうち、二十五が、付け届けでございます」
「残りの十五は」
「わたくしの、ものでございます」
わたしは、うなずいた。
「フーゴさん。あなたは、この家を潰さなかった。それは、たぶん、本当です」
「――は」
「ですが、あなたが守ったのは、家です」
わたしは、窓の外の広場を見た。高札の紙は、まだ、右下の角がめくれたままだ。
「増えた実りを取られたのは、村の人です。あなたは、村から取って、家を守りました。……それは、この七年、村の人が知らないところで、勝手に決められた話です」
*
読み上げの市は、その三日後に立った。言い出したのは、女伯自身だ。
「――グラウフェルト様。うちの領の告げ知らせの欄は、七年、嘘を書いておりました」
「はい」
「あの欄を、埋め直すには、どうすればよろしいの」
「読むしか、ありません」
「では、読みますわ」
*
アイヒベルクの広場に、人が集まった。最初は、二十人ほどだった。
高札の前に、木の台が置かれた。台の上に立ったのは、この領の当主だ。
灰色の髪を結い上げて、外套の裾を汚さないように持ち上げて、五十に手の届く女伯が、木の台に上がる。
手には、算定書。
そして、その隣に、もう一枚。ニコが描いた、絵の算定書だ。
*
「――アイヒベルク領、今年の実り」
女伯の声は、震えていた。
「麦、九百四十俵」
広場が、ざわめいた。
「去年、八百十俵。……百三十俵、増えております」
前のほうの老人が、耳に手を当てた。
「もっと、大きな声で!」
「――麦、九百四十俵!」
その声で、広場の後ろまで、届いた。人が、増えてきた。三十人。四十人。市の店の者が、手を止めて、こちらを見ている。
「賦課の式は、実りの、二十分の一。……ここに、絵がございます」
女伯は、二枚目の紙を、掲げた。玉が二十個。一つだけ、色が塗ってある。
「二十のうちの、一つ。それが、皆が納める分でございます」
そこで、女伯は、一度、言葉を切った。そして、まったく違う声で、言った。
「――七年、この数を、皆に知らせておりませんでした」
市の店の者まで、手を止めていた。
「増えた実りの分を、この家の者が、抜いておりました。年に四十グルデン。七年で、二百八十グルデン。……皆の、豊作の分でございます」
誰も、声を上げなかった。
「返します。何年かかっても、返します。返し方は、月に一度、この台の上で、皆に知らせます」
女伯は、そこで、初めて、頭を下げた。
深く、長く。
領主が、領民に。
*
台を降りたあと、その人は、ニコの前に立った。
「――小僧殿」
「……はい」
「あの日は、失礼をいたしましたわ」
女伯は、絵の算定書を、両手で持っていた。しわの伸ばされた、あの一枚だ。
「この紙がなければ、わたくしは、今日、あの台の上で、何を言えばよいか、分かりませんでした」
そして、その女伯が、八つの子に、頭を下げた。ニコは、真っ赤になって、その場で三回、飛び跳ねた。
「あの! おいら、まだいっぱい描けます! おばさまのとこの村の数だけ、描く!」
「――まあ」
女伯は、初めて、扇なしで笑った。
「では、うちに、いただけませんこと。この小僧殿を」
わたしは、すかさず答えた。
「いいえ。この子は、うちの子です」
*
帰りの馬車の中で、ニコは、荷台に丸くなって、すぐに寝てしまった。
十日ぶんの疲れが、いっぺんに来たらしい。わたしは、その寝顔を見ながら、ヴォルフ様に言った。
「――ヴォルフ様。この子、あと何年、うちの子でいてくれるでしょう」
「さあな」
この人は、外を見たまま答えた。
「だが、あの女伯が欲しがるくらいだ。……そのうち、方々から来るぞ」
「ええ」
わたしは、この子の襟巻を、直してやった。
(――そのうち、来るのね)
寂しい、と思った。同時に、こうも思った。
――そのうち、来るように、育てたのだわ。
罰する代わりに、自分の口で読ませました。
ヒルデガルトは、罷免も断罪もされません。木の台に上がって、自分の領の数字を、自分の声で読みます。この作品のざまぁは、いつも相手が自分の言葉を自分で食う形をしています。「田舎者に読んで聞かせても分かりますまい」と言った人が、いちばん大きな声で読む台に立ちました。そして、八つの子に頭を下げます。
次回・第80話「帰ってきた弟子は、先生でした」。館へ戻ると、講堂から声がします。




