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第78話:読めないのは、恥ではありません

その晩、わたしは、館の廊下で、ニコを捕まえた。正確には、向こうが飛びついてきた。


「お姉ちゃん!」


「ニコ。……ずいぶん、日に焼けたわね」


「広場、寒いけど、日は当たるんだ」


十日ぶりのこの子は、少し痩せて、少し声が低くなった気がした。わたしは、その手に持っている紙束を見た。


留守帳だ。


「見せてくれる?」


「うん」


*


その帳は、ひどい字だった。そして、みごとな帳だった。


日付。村の名。読み上げの有無。いつ・どこで・だれが。そして、四つ目。


『ミュール村 よみあげ なし 「きいたことない」 じいさん


 ローゼ村 よみあげ なし 「たかふだは あった。よんでない」 おばさん 3にん


 アイヒベルク むらの ひろば よみあげ なし 「ろくじゅうねん しらん」 じいさん』


十四の村。読み上げがあった村は、ゼロ。


「ニコ。これ、全部、自分で回ったの」


「うん。ハーゲンどのは、館で帳を検めてるから。おいら、暇だったし」


(――暇だったし)


わたしは、その帳を、両手で持った。これは、法の言葉で言えば、聞き取り記録だ。


検分使の署名も、印もない。八つの子が、拙い仮名で書いた紙束にすぎない。


けれど、この十四行は、アイヒベルクの完璧な算定書の、七つ目の欄を、まるごと否定する。


「ニコ。……これ、お手柄よ」


「ほんと?」


「本当。……ハーゲン殿には、見せた?」


「見せた。そしたら」


その子は、口をとがらせた。


「『これは、検分の記録には、できぬ』って」


「――ええ。そうでしょうね」


「なんで? ちゃんと聞いたのに」


「あなたに、権がないからよ」


わたしは、その帳を、そっと返した。


「聞き取りは、検分使の権で行われて、初めて記録になります。あなたは助手だから、あなたの紙は、検分使が『これを自分の聞き取りとする』と言わないと、紙のまま」


ニコは、しばらく、むくれていた。それから、言った。


「じゃあ、言わせればいいんだ」


「――ええ」


わたしは、思わず笑った。


「そのとおりよ」


*


翌朝、わたしは、出立の支度をしなかった。雪は、降らなかった。


(――四十年、帳を預かっている家令)


その人の名を、わたしは、昨夜のうちに調べていた。


フーゴ。五十がらみ。この館で生まれ、この館で育ち、先代の女伯の代から、帳を握っている。


有能だと、女伯は言った。実際、有能なのだろう。あの算定書は、四十年ぶんの腕が書いた紙だ。


けれど、有能な人が四十年ひとりで帳を握っていた家で、当主が数字を読めない――その二つが揃うと、たいていの場合、答えは一つしかない。


(――確かめないと、いけないわ)


確かめる先は、帳ではない。帳は、書いた人の言いぶんだ。確かめるのは、いつだって、物のほうだ。


*


ヴォルフ様は、朝いちばんから厩へ行って、昼前に戻ってきた。外套に、藁がついている。


「――蔵の者と、話してきた」


「いかがでした」


「馬の話を、二刻した」


「二刻」


「そのあと、麦の話になった」


この人は、腰を下ろして、指を三本立てた。


「今年の蔵の入り、九百四十俵。去年、八百十俵。……蔵の男は、数を、諳んじていた。二十年、数えているそうだ」


わたしは、旅嚢から、アイヒベルクの算定書の写しを出した。いちばん上の欄に、目を落とす。そこには、こう書いてある。


八百十。


「――ヴォルフ様」


「うん」


「今年の実りの欄に、去年の数が入っています」


*


その日の午後、わたしは、もう一度、応接間に通された。通されるとは、思っていなかった。


ヒルデガルト・フォン・アイヒベルクは、昨日と同じ椅子に座って、昨日と同じ扇を持っていた。


けれど、目の下に、隈があった。


「――お発ちにならなかったのですね」


「はい」


「雪は、降りませんでしたわ」


「ええ。降りませんでした」


わたしは、机の上に、二枚の紙を置いた。一枚は、算定書の写し。もう一枚は、蔵の数の覚え書き。九百四十と、八百十。


「アイヒベルク様。この二枚を、ご自分で、比べていただけますか」


女伯は、動かなかった。


「フーゴをお呼びしましょうか。あの者なら、すぐに」


「――いいえ」


わたしは、静かに言った。


「あなたに、読んでいただきたいのです」


長い、長い沈黙があった。暖炉の火が、何度か、はぜた。


やがて、ヒルデガルト・フォン・アイヒベルクは、扇を、膝の上に置いた。そして、初めて、上品ではない声を出した。


「――読めませんの」


*


「数は、分かりますわ。八百十と、九百四十。どちらが大きいかも」


その人は、両手を、膝の上で、きつく組んでいた。


「けれど、その紙のどこに何が書いてあって、どの数がどこから来るのか。……四十年、フーゴが説明するのを、うなずいて聞いてまいりました。うなずけば、話は終わりますでしょう?」


「――ええ」


「三十年前、賦課が倍になったとき、わたくしは十八でございました。父が亡くなって、家に、わたくししか残っておりませんでしたの。抗って潰れた家を、三つ見ました。ですから、わたくしは、抗いませんでした」


女伯は、机の上の紙を、見ようとしなかった。


「その代わり、紙だけは、完璧にいたしました。フーゴが、そうしてくれました。……あの者は、有能ですのよ。本当に」


「アイヒベルク様」


「わたくしが、恥をさらす前に、お帰りくださいませんこと」


わたしは、席を立った。けれど、帰らなかった。女伯の隣の椅子まで歩いて、そこに、腰を下ろした。


そして、旅嚢から、母のそろばんを出した。


「――なんですの、それは」


「そろばんです。母の形見です」


わたしは、それを、その人の前に置いた。


「アイヒベルク様。読めないのは、恥ではありません」


「――」


「読めないままにされているのが、損なんです」


*


その日、わたしは、日が暮れるまで、そこにいた。教えたのは、玉の持ち方と、桁の意味と、それから、八つの欄の名前だけだ。


女伯の指は、震えていた。絹の手袋を外した手は、思ったより、皺が多かった。


「――この、四つ目の欄」


「はい」


「ここに、去年の数が入るのですね」


「そうです。今年の数の、隣に」


「……では」


その人は、算定書の写しに、初めて、自分から目を落とした。そして、今年の欄と、去年の欄を、指で追った。


八百十。


八百十。


「――同じですわ」


「はい」


「今年は、豊作でしたのに」


「はい」


女伯の指が、そこで止まった。そのまま、動かなくなった。暖炉の火が、はぜる音だけが、しばらく続いた。


やがて、その人は、絞り出すように、言った。


「……わたくしは、いったい、何を守っておりましたの」


わたしは、答えなかった。答えるべきことは、たぶん、この人が自分で見つける。


代わりに、わたしは、そろばんの玉を、一つだけ、上げてみせた。


「アイヒベルク様。この差が、いくつになるか、ご自分で出せますか」


「――九百四十から、八百十を、引くのですね」


「はい」


女伯の指が、玉の上を、ゆっくりと動いた。止まり、戻り、また動いた。


「……百三十」


「そうです」


「百三十俵ぶんの実りが、この紙には、載っていない」


「載っておりません」


「では、その百三十は」


そこで、その人の声が、初めて、震えた。


「――どこへ、参りましたの」


わたしは、そのそろばんを、その人の手元に残したまま、立ち上がった。


「それを、明日、ご自分で、お確かめください」


「……わたくしが?」


「はい。わたしが調べれば、それは、よその領の財務官が暴いた話になります」


わたしは、窓の外の、灰色の広場を見た。


「あなたがお調べになれば、アイヒベルクが、自分で直した話になります」

四十年、うなずいて聞いてきた人の話でした。


ヒルデガルトは、読めないのではなく、読めないままにされていました。しかも、そうしてくれた家令を、いまでも「有能ですのよ」と言います。十八で家を継いで、抗って潰れた家を三つ見た人が、紙を盾にして生き延びた――その盾の内側が、今回のところです。教えたのは、玉の持ち方と、欄の名前だけです。


次回・第79話「読み上げの市、立ちます」。広場に、木の台が一つ、置かれます。


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