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第77話:品よく、追い返されました

アイヒベルクへは、馬車で二日だった。


冬に入ったばかりの南の道は、まだ、ぬかるみが凍りきっていない。轍が深く、車輪がよく跳ねる。


「エルナ」


向かいの席で、ヴォルフ様が、腕を組んだまま言った。


「――商会の男は、待たせておいていいのか」


「冬のうちに、と書いてありました」


わたしは、膝の上の書付から、顔を上げた。


「冬は、あとふた月あります。……そのあいだに、こちらの数字を、揃えます」


「向こうも、揃えているぞ」


「ええ。たぶん、こちらより上手に」


わたしは、そう言って、少しだけ笑った。


(――待たせるのは、こちらの都合ではないの)


先に南へ行くのは、順番の問題だ。ブラント商会の話は、この領の中の話だ。逃げない。


アイヒベルクの検分は、いま、そこで動いている。動いているうちに行かなければ、間に合わない。


馬車は、途中で、二つの村を通った。


一つ目は、グラウフェルトの南端のブラウ村。ヨストさんの村だ。広場に、算定書が貼ってあった。人が三人、その前で立ち話をしていた。指をさして、何か言い合っている。


二つ目は、領境を越えて、アイヒベルクの最初の村。わたしは、馬車の窓から、その広場を見た。


高札は、あった。


紙も、貼ってあった。けれど、その前に、人はいなかった。


(――貼ってはあるのね)


紙は、風で、右下の角がめくれていた。誰も、直していない。


「ヴォルフ様。あの高札を、見てくださいますか」


「……見ている」


「何か、お気づきに?」


「――誰も、見ていない」


この人は、そう言ってから、少し考えて、付け加えた。


「うちの村なら、あの角は、その日のうちに誰かが留める」


*


アイヒベルクの館は、灰色の石で建っていた。


古い。グラウフェルトの館より、三代ぶん古い。門の樫の葉の紋章は、風雨で角が丸くなっている。門番の対応は、完璧だった。


案内も、完璧だった。通された応接間の、椅子の高さも、湯呑みの温度も、火の加減も、完璧だった。


「まあ、遠路を。この寒いのに」


ヒルデガルト・フォン・アイヒベルクは、灰色の髪をきれいに結い上げて、扇を持って現れた。


「――お邪魔をいたします」


「お邪魔だなんて。……辺境伯様も、ようこそ」


ヴォルフ様は、無言で、一度だけ頭を下げた。この人は、こういう場では、しゃべらないのがいちばんいいと知っている。


しばらく、天気の話をした。道の凍り具合の話をした。去年の葡萄酒の出来の話をした。


半刻経って、わたしは、切り出した。


「アイヒベルク様。定期検分の件で、伺いました」


「まあ。ハーゲン殿から、もう報告が?」


「いえ。わたしは、うちの弟子の手紙を、読んだだけです」


女伯の扇が、一瞬、止まった。


*


「――手紙」


「ええ。三通」


わたしは、膝の上で、指を組んだ。


「アイヒベルク様。この領の算定書は、みごとです。八つの欄が、一つも欠けていません」


「恐れ入りますわ」


「王国じゅうを探しても、あれより整った紙は、そう多くありません」


「まあ、褒めすぎですこと」


「――ですから、伺いたいのです」


わたしは、そこで、少しだけ、声の調子を変えた。


「あの紙の、七つ目の欄。告げ知らせの日取り。……あの日、広場で、どなたが読み上げましたか」


暖炉の薪が、ぱち、と鳴った。


「グラウフェルト様」


女伯は、扇を、ゆっくり開いた。


「うちの領の帳は、法どおりでございますわ」


「――はい」


「欄は、埋まっております。式も、書いております。署名も、同じ日でございます。あなた様がお作りになった法の、どこにも、背いておりません」


「そのとおりです」


わたしは、うなずいた。うなずいてから、続けた。


「ですから、法の外の話を、いたしましょう」


*


女伯の眉が、上がった。


「――法の、外」


「ええ」


「これはこれは。法をお作りになった方が、法の外の話を?」


「法は、わたしが作りました」


わたしは、まっすぐ、その人を見た。


「作った者がいちばんよく知っております。あの八つの欄は、何のためにあるのかを」


「何のために?」


「――村の人が、自分がいくら払っているかを、自分で確かめられるためです」


ヒルデガルトは、しばらく、わたしを見ていた。それから、可笑しそうに、笑った。


「まあ。……なんて、贅沢な」


「贅沢?」


「ええ、贅沢ですわ。うちの村の者は、明日の薪の心配をしております。自分の税の額を確かめる暇があるなら、その手で薪を割れと、わたくしなら申しますけれど」


(――ああ)


わたしは、その言葉の形を、よく知っていた。去年の冬、王都の夜会で、わたしに投げられた言葉と、同じ形だ。


数字をこねている暇があるなら、社交をなさい。


「アイヒベルク様。一つだけ、伺わせてください」


「なんなりと」


「――去年の、この領の賦課は、いくらでしたか」


*


沈黙が、あった。


長い沈黙ではない。二つ、数える程度だ。けれど、たしかに、あった。


「……三百二十グルデンでございましたかしら」


「今年は」


「今年も、そのあたりですわ」


「そのあたり、と申しますと」


「グラウフェルト様」


女伯は、扇を閉じた。閉じる音が、少しだけ、大きかった。


「わたくしを、試しておいでですの」


「いいえ」


わたしは、静かに答えた。


「――伺っているだけです」


「うちには、家令がおります。フーゴと申しまして、四十年、この家の帳を預かっております。額のことは、あの者が」


「では、あなたは」


わたしは、そこで、言葉を選ぶのを、やめた。


「あなたは、ご自分の領の算定書を、一度でも、ご自分で読まれたことが、おありですか」


*


応接間の火が、はぜた。ヒルデガルト・フォン・アイヒベルクは、背筋を伸ばしたまま、まったく動かなかった。


そして、完璧な礼で、立ち上がった。


「――今日は、お疲れでございましょう。お部屋を、ご用意させておりますわ」


「アイヒベルク様」


「明日は、雪になるそうです。お発ちになるなら、早いうちが」


その声は、感じよく、上品で、少しの乱れもなかった。追い出されている、と気づくのに、わたしは、しばらくかかった。


(――品よく、追い返されたのね)


扉のところで、女伯は、一度だけ、振り返った。


「グラウフェルト様。……お若い方は、いつも、正しいことをおっしゃいます」


扇の陰の目が、こちらを見ていた。その目が、怒っていないことに、わたしは、そのとき初めて気づいた。


怒っている目ではない。


怯えている目だ。


*


宛がわれた部屋は、暖かかった。


火は熾されていて、湯も運ばれてきた。追い出すのに、これほど手厚くもてなす家を、わたしは知らない。


「――追い返された、という顔だな」


ヴォルフ様が、外套を脱ぎながら言った。


「ええ。品よく」


「明日、発つのか」


「――いいえ」


わたしは、窓の外を見た。雲は薄い。あの空から、明日、雪は降らない。


「もう一晩、いただきます」


「向こうは、嫌がるぞ」


「嫌がってくださるうちは、まだ、話ができます」


わたしは、旅嚢から、書付を出した。


「ヴォルフ様。あの方の最後の言葉、覚えていらっしゃいますか」


「お若い方は、いつも正しいことをおっしゃる、か」


「あれは、負け惜しみではありません」


わたしは、筆を出して、書付の余白に、その言葉を書き取った。


「あれは――正しいことを言われても動けない事情が、こちらにある、という言い方です」


「事情、か」


「ええ。……その事情を、まだ、わたしは一つも知りません」


ヴォルフ様は、寝台の縁に腰を下ろして、しばらく黙っていた。


「エルナ。俺は、明日、この館の者と話す」


「――どなたと」


「厩と、蔵の者だ。俺は、そのほうが得意だ」


わたしは、思わず、その顔を見た。


「……よろしいのですか」


「帳は読めん。だが、蔵に何俵入っているかは、俺にも数えられる」

数字で勝てない場所での戦い方、という回でした。


アイヒベルクの帳は、法どおりです。だからエルナは、法の話をやめて、法の外の話を持ち出します。そして最後の問いで、女伯の完璧な礼が、初めて一手ぶんだけ乱れます。書いている側としては、扇を閉じる音を少し大きくするのに、ずいぶん迷いました。追い返される場面ですが、勝負としては、ここで半分ついています。


次回・第78話「読めないのは、恥ではありません」。四十年、帳を預かってきた人がいます。

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