第76話:豊かな辺境の、高い麦
その日、わたしは、久しぶりに市へ出た。理由は、単純だ。マルタが厨房で、鍋を睨みながら唸っていたからだ。
「マルタ。どうかしたの」
「いえね。今月の膳の勘定が、どうにも合わないんですよ」
「合わない?」
「同じもの買って、同じだけ作ってるんです。なのに、去年より、二割も出ていく」
わたしは、その帳を、覗き込んだ。麦。豆。塩。油。乾し肉。数量は、去年と、ほとんど同じだ。
値だけが、上がっている。
*
市は、にぎわっていた。
去年の、あの、店が三軒しか出ていなかった広場ではない。荷馬車が並び、よその領の訛りが飛び交い、宿の呼び込みが立っている。
わたしは、麦の店の前で、立ち止まった。板に、値が書いてある。一俵、銀貨十二枚。
(――十二)
去年の秋は、八枚だった。
「ご新規さんですかい」
店の男が、愛想よく声をかけてきた。よその領の訛りだ。
「……去年より、上がりましたね」
「そりゃあ、上がりますよ。この辺は、いま、景気がいいですからね。宿ができる、倉が建つ、人が来る。麦が要るんです。要るものは、上がります」
「豊作だったと聞きましたが」
「豊作ですよ。豊作でこの値だ。ありがたい土地だ」
*
わたしは、市を、端から端まで歩いた。歩きながら、頭の中で、そろばんを弾いた。
麦、五割高。
豆、四割高。
塩、据え置き。これは王国の専売だから、動かない。宿代――去年の倍。そして、いちばん驚いたのは、地代だった。
市の隅で、古着を売っていた婆さんが、教えてくれた。
「あたしゃね、この場所を、月に銅貨で借りてたんですよ。それが、今年から銀貨だって」
「――どなたから、お借りに?」
「去年までは、村ですよ。今年から、よその旦那です」
「よその旦那?」
「なんでも、まとめてお買いになったとかで。……あたしゃ、来月から、道の端でやります」
「その旦那は、何と言って?」
「丁寧でしたよ。若い衆が来てね、頭を下げて、こう言うんです。『これまでどおりお使いいただけます。ただ、場所代は、来月から銀貨でお願いします』って」
「――断ることは」
「できますよ。出ていきゃいい」
婆さんは、けらけら笑った。
「怒鳴られてもいませんし、追い出されてもいません。値が上がっただけです。……値が上がったからって、怒る相手が、いませんでしょう」
(――そう。怒る相手が、いないのね)
去年、この広場で怒鳴っていたのは、代官バルトロトだった。憎めた。顔があった。
いま、婆さんを道の端へ押し出しているのは、丁寧に頭を下げた若い衆と、銀貨という一語だ。
*
館へ戻って、わたしは、領の帳を、片端から開いた。そして、二刻で、輪郭が見えた。
この一年で、辺境の土地と建物が、次々と、同じ買い手のところへ移っている。
宿が六軒。倉が四棟。市の敷地。そして――畑の地代の権が、二十三戸ぶん。
畑そのものは、売られていない。売られたのは、地代を受け取る権利のほうだ。
(――上手いわ)
畑を買えば、目立つ。村が騒ぐ。領主が止める。
地代の権だけなら、耕す人は変わらない。景色も変わらない。ただ、毎年の上がりの行き先だけが、静かに変わる。
「ギード。この買い手の名は」
「ここに、ございます」
老副官が、覚書を持ってきた。
『ブラント商会』。
「――聞かない名ね」
「王都と、南の四領に店を持つ、大きな商会でございます。会頭はラウレンツ・ブラントと申しますとか。……先だっての交易の便で、コンラート殿が、名を口にしておられました」
*
コンラートさんは、その三日後に、辺境へ来た。
ヴェント領の商人。もう一年半の付き合いになる。少し腹が出て、少し白髪が増えた。
「――ブラント商会でございますか。ええ、存じております」
葡萄酒の樽を降ろしながら、彼は言った。
「悪い商会では、ございませんな」
「悪くない?」
「はい。約束を違えません。値も、法外ではない。取り立ても荒くない。……正直に申せば、うちの領へ来てもらいたいくらいの商会でございます」
「……そう」
「ただ」
コンラートさんは、樽から手を離して、少し声を落とした。
「あそこは、儲かる土地にしか、来ませんな」
「――ヴェントには」
「来ておりません」
コンラートさんは、あっさり答えた。
「うちは、去年から、じり貧でございますからな。……ああ、いや、恨み言ではございませんぞ。新しい法のおかげで、取り漏らし狩りは、止まりました。あれは、本当に助かりました」
「ええ」
「ただ、萎んだ商いは、すぐには戻りません。戻るまで、あと二年、いや三年」
彼は、樽の腹を、ぽん、と叩いた。
「その三年のあいだ、うちには、誰も元手を入れに来ません。……儲かるところに、金は寄ります。そういうものです」
「――こちらには、来ている」
「押し寄せておりましょう」
コンラートさんは、笑った。
「財務官様。この一年で、この辺の宿は、何軒になりましたかな」
「――十一軒です」
「去年は」
「……二軒でした」
*
その晩、館の夕餉は、いつもより、少しだけ質素だった。マルタが、値の上がった麦を、少し控えたからだ。
「――財務官様。うちはいいんですよ、館は」
膳を下げながら、マルタが言った。
「銭がありますから。買えます」
「ええ」
「ヴェルナーさんとこは、どうかね」
わたしは、匙を、置いた。
「――ヴェルナーさんの家は」
「今日、聞いてきました」
マルタは、前掛けで手を拭いた。
「あすこは、去年、麦を売る側でした。今年も、売る側です。豊作でしたからね。売った銭は、去年より、多いんです」
「――ええ」
「なのに、あすこの膳、去年より、薄いんですよ」
わたしは、しばらく、何も言えなかった。
「麦を売った銭で、豆と塩と油を買うでしょう。豆が四割上がってる。宿代も地代も上がってる。倅の嫁が働きに出た店は、よその旦那のものになって、日当は据え置きです」
マルタは、そこで、初めて、困った顔をした。
「あたしゃ、算術は名前しか書けませんがね。……売る値が上がったのに、暮らしが薄くなるってのは、どういう勘定です」
*
その夜、わたしは、領の四半期の帳を、開いた。数字は、みごとだった。
領の上がり、過去最高。地代の収入、増加。宿からの運上、増加。市の運上、大幅に増加。四半期の黒字、百四十グルデン。
去年、この領の年の余りは、百二十グルデンだった。それが、四半期で、それを超えている。
(――黒字は、出ているわ)
わたしは、そのそろばんの玉を、上げたまま、じっと見ていた。去年、御前決算の場で、わたしは、財務卿にこう問うた。
その黒字は、誰の赤字ですか、と。国の黒字が、領の赤字の付け替えでできていることを、あの日、わたしは数字で示した。
(――いま、この帳簿の黒字は)
わたしは、ゆっくり、帳を閉じた。
(この黒字は、誰の食卓なのかしら)
*
翌朝、門に、荷馬車が二台、止まった。荷ではなく、贈り物だった。
葡萄酒。絹。砂糖菓子の詰め合わせ。そして、館の門扉に合う大きさの、真鍮の飾り金具。
御者頭が、うやうやしく、一通の書状を差し出した。封蝋は、天秤ではなく、船の帆の意匠だった。
『グラウフェルト辺境伯ご夫妻へ
このたびは、当商会がご領内にて商いを広げますことを、ご挨拶もせぬままに進めました無礼、平にご容赦くださいませ。
冬のうちに、会頭みずから、ご挨拶に参上いたしたく存じます。
ブラント商会 ラウレンツ・ブラント』
わたしは、その紙を、指でなぞった。紙は上等で、字は美しく、文面には、一つの隙もない。
(――挨拶もせぬままに進めた、と、ご自分で書いておられるわ)
先に済ませてから、詫びに来る。謝る順番を、正確に知っている人の書き方だった。
「ギード。この贈り物は」
「お返しになりますか」
「――いいえ。受け取ります。ただし、全部、値をつけて帳に載せてください」
「値を、でございますか」
「ええ。いつか、返すことになりますから」
第76話、お読みいただきありがとうございます!
豊作で、値が上がって、売った銭は増えて、それなのに膳が薄い。今回のマルタの問いは、この第三部の中心にある問いです。エルナは去年、御前で「その黒字は、誰の赤字ですか」と問いました。同じ問いが、今度は自分の領の帳簿に返ってきます。地代の権だけを買う、というのも、畑を買うより静かで、上手いやり方です。
次回・第77話「品よく、追い返されました」。冬の客を待たせて、先に南へ発ちます。
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