第8話:数字をこねる女の、本気
帳簿は、それだけでは証拠にならない。
わたしが写した数字を、バルトロトは「小娘の作り話だ」と言い張るだろう。紙の上の数字に、紙の上の数字をぶつけても、水掛け論にしかならない。
数字を、証拠に変えるもの。それは――人の口だ。
「この台帳では、東の村は今季、麦を八十袋納めたことになっています。実際は、いかがでしたか」
わたしは、村長のマルタと、十数人の村人を前に、一行ずつ読み上げていった。
「八十なんて、とんでもない」と老婆が首を振る。「うちの村は、百十袋持ってかれたよ。婆さまの藁紐に、ちゃんと結んである。代官の手代が、棒で叩いて、無理やり蔵を開けさせてね」
百十、と帳面に納めた数は八十。差の三十袋が、どこへ消えたか。村人たちの顔が、それを語っている。
一軒、また一軒。証言と帳面を突き合わせるたびに、数字に血が通っていく。乾いた数字が、「あの日、誰が、何を、無理やり持っていったか」という、生きた記憶に裏打ちされていく。
(そう。帳簿は、人の記憶と重なって、初めて証拠になる)
「お姉ちゃん」
足元から、声がした。村の子、ニコだ。八つになる、目のくりくりした男の子。
「その玉っころ(そろばん)で、悪い代官をやっつけるの?」
「やっつける、というより」わたしは少し考えた。「数えるのよ。あの人が、どれだけ取って、どれだけ隠したか。一つ残らず、数える」
「数えるだけで、やっつけられるの?」
「数えるだけで、よ」わたしは母の算盤の玉を、ぱちんと弾いてみせた。「悪いことをした人は、数えられるのが、いちばん怖いの」
ニコは目を丸くして、それから、にっと笑った。「おいらも、数えられるようになりたい!」
その晩、館の食卓には、めずらしく湯気が立っていた。マルタが「世話になってるからね」と、村で炊いた麦粥と、塩漬けの野菜を持ってきてくれたのだ。硬いパンと薄い豆のスープしか知らなかったこの館に、ほんの少し、人の温もりのようなものが戻っていた。
向かいで、ヴォルフ様が黙々と匙を動かしている。やがて、彼は匙を置いた。
「ライゼンタール殿。一つ、言っておきたい」
「はい」
「あんたは、危ない橋を渡っている。バルトロトは、追い詰められれば何をするか分からん男だ。詰所で、夜道がどうのと脅されたそうだな」
ギードが告げ口したらしい。わたしは小さく肩をすくめた。
「脅しは、やましさの裏返しです。怖くは――まあ、それなりに」
「だろうな」ヴォルフ様は、まっすぐにわたしを見た。荒れた、剣だこのある手を、机の上で組んで。「だから、これからは、俺の名でやれ」
「……辺境伯の、お名前で?」
「査定の場を、正式に開く。領主の名において、徴税の不正を検める場だ。あんたは俺の財務官として、そこに立つ。村の連中も、領主の召喚なら、安心して証言できる。――何より」
彼は、少し言葉に詰まった。世辞を言い慣れない人の、不器用な間だった。
「あんた一人を、夜道に立たせはせん。盾になるのが、俺の仕事だ。数字で戦うのが、あんたの仕事なら」
胸の奥が、こつ、と鳴った気がした。母の算盤とは、違う場所が。
「華がない女だと、王都では言われ続けてきました」気づけば、わたしはそう口にしていた。「数字をこねるしか能のない女だと。――でも、ここでは、その能が、盾を借りられるんですね」
「能が、か」ヴォルフ様は、ふっと息だけで笑った。「俺は剣しか持たん男だが、それでも分かる。宝を、宝と見抜けなかった連中が、間抜けなんだ」
不器用な、けれどまっすぐな言葉だった。わたしは、返す言葉を探して、結局、淑女らしく頭を下げるしかできなかった。顔が、少し熱かった。たぶん、麦粥の湯気のせいだ。そういうことにしておいた。
数日後、領主の名で、触れが出た。
――徴税の収支を、領民立ち会いのもとで検める「公開査定」を行う。代官バルトロト、これに出座すべし。
触れを聞いたバルトロトは、鼻で笑ったという。
「公開査定? けっこうなことだ。小娘の作文を、領民の前で恥をかかせてやる、いい機会というわけだ」
余裕の構えだった。彼はまだ、本気で侮っている。数字をこねる女の本気が、どういうものか――知らないのだ。
(いいでしょう。お望みどおり、公開の場で)
わたしは、写し終えた帳面の束を、とん、と揃えた。
(一の位まで、合わせて差し上げます)
ありがとうございます! ヴォルフがついに「盾になる」と正式に後ろ盾を宣言。焦らし気味の二人ですが、麦粥の湯気の向こうで、信頼が一歩進みました(エルナさん、それは湯気のせいではないと思います)。
村の証言が束ねられ、舞台は「公開査定」へ。そしてバルトロトは、まだエルナを侮っています。次回、いよいよ数字の詰将棋が始まります。一行ずつ、逃げ場を塞いでいく――。
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