第74話:弟子の、はじめての検分
ハーゲン殿からの書状は、女伯が帰った翌日に届いた。
要件は、二つ。
一つ。この冬、南の諸領へ定期検分に入る。アイヒベルクを含む、七つの領。
二つ。――検分の助手として、帳所の者を一人、出してもらえないか。
『新法の定期検分は、算定の式を検めるだけでなく、告げ知らせが実際に行われたかを、村で聞き取ります。聞き取りは、検分使より、村に近い者のほうが向いております。財務官殿のところの者であれば、なお』
(――この方は、気づいているのね)
わたしは、書状を、二度読んだ。
ハーゲン殿は、アイヒベルクの算定書を、当然、見ている。そして、告げ知らせの欄に日付だけが入っていることも、たぶん、見ている。
そのうえで、「聞き取り」と書いてきた。
*
その日の夕方、帳所の板の前で、わたしは、その話をした。四十一人が、静かに聞いていた。
「――というわけで、一人、出します。冬の道です。往復で十日。宿は、検分使のご厄介になります」
「はい!」
いちばん前で、手が上がった。
ニコだった。
「おいら、行く」
「……ニコ」
「行きたい」
わたしは、その顔を見た。一昨日、紙を拾って、しわを伸ばした顔だ。
(――行かせて、いいの?)
危ない仕事ではない。検分使の一行に加わるだけだ。冬の道は寒いけれど、ハーゲン殿の旅は堅実で、無理をしない。
危なくはない。
ただ、あの領へ行けば、この子は、また同じ言葉を聞く。
「ニコ。……向こうで、この前と同じことを言われるかもしれないわ」
「うん」
「品がない、と」
「うん」
その子は、まっすぐ、こちらを見た。
「でも、おいらの絵、まだ、あの人に見せてないもん」
「見せたでしょう」
「見せてない。落ちたもん」
(――ああ)
この子は、あれを「拒まれた」と数えていない。
「届かなかった」と数えている。
*
その晩、寝室で、わたしは決めかねていた。
「行かせろ」
ヴォルフ様は、こともなげに言った。
「危ないからではありません」
「分かっている」
「侮られます。八つの子です。門で追い返されるかもしれません」
「追い返されたら、帰ってくるだろう」
「――帰ってきたときに、あの子が、自分の絵を捨てていたら」
わたしは、そこで、言葉を切った。言ってしまってから、それがいちばん怖いのだと、初めて分かった。
ヴォルフ様は、しばらく黙っていた。それから、寝台の縁に腰を下ろして、こう言った。
「俺の初陣は、十四だった」
「……存じています」
「灰の境の、南の巡回だ。灰狼が二頭。俺は、後ろで馬の轡を持っていただけだ。剣は抜いていない」
「ええ」
「その夜、俺は、親父に聞いた。……なぜ、俺を連れていったのかと」
この人は、自分の左の掌を、見ていた。
「親父は、こう言った。『初めての血は、俺が見ている前で見ろ』と」
わたしは、その言葉を、しばらく噛んでいた。
「――ハーゲン殿が、見ている前で」
「そういうことだ」
ヴォルフ様は、ぶっきらぼうに続けた。
「侮られるのは、いつか必ずある。どうせあるなら、隣に大人がいるうちに、一度、食っておいたほうがいい」
*
出立までの三日で、わたしは、ニコに、聞き取りの手ほどきをした。紙と炭を渡して、館の者を相手に、稽古をさせる。
「――ギード。あなたの村では、去年、算定の読み上げがありましたか」
「あったのう」
「はい、じゃあ、ここに丸」
「待ちなさい」
わたしは、その手を止めた。
「ニコ。丸をつける前に、もう一つ、聞くの」
「なにを?」
「いつ、どこで、誰が読んだか」
その子は、きょとんとした。
「なんで? あったって言ってるのに」
「――言うだけなら、誰でもできるからよ」
わたしは、その紙の余白に、三つの言葉を書いた。いつ。どこで。だれが。
「聞かれた人は、あったかと聞かれれば、あったと答えます。悪気があるわけではないの。ないと答えると叱られる気がするから」
「あー」
「でも、いつ、どこで、誰が、を三つ揃えて言える人は、本当にあった村の人だけ」
ニコは、その三つの言葉を、留守帳に書き写した。そして、しばらくして、こう言った。
「じゃあさ、四つ目も聞いていい?」
「なあに」
「なんて言ってたか」
わたしは、思わず、この子の顔を見た。
「――ええ。それは、いい四つ目だわ」
*
出立は、三日後の朝だった。ニコの荷は、思ったより小さかった。着替えと、乾し肉と、母親の縫った襟巻。
それから、そろばん。自分の。玉が二つ欠けている、古い、小さいやつだ。
「絵は?」
「ここ」
その子は、上着の内側を、ぽん、と叩いた。
「濡れないように、油紙に包んだ」
「……よく気がついたわね」
「ヤンが、包んでくれた」
門の前に、村の衆が出てきていた。マルタが、焼き菓子の包みを押しつけている。リーゼが、泣きそうな顔で手を振っている。ヨストさんが、大きな手で、この子の頭を、ぐしゃぐしゃに撫でた。
わたしは、最後に、その前にしゃがんだ。
「ニコ。検分の助手のお役目は、三つよ」
「うん」
「一つ。数を数える。二つ。聞いたことを、そのまま書く」
「三つ目は?」
「――向こうの村の人と、話すこと」
その子は、きょとんとした。
「それ、お役目なの?」
「いちばん大事なお役目よ」
わたしは、その襟巻を、少しだけ、直した。
「検分使殿には、聞けないことがあるの。お偉い方には、村の人は、本当のことを言わないから。……あなたには、言うわ」
「なんで?」
「あなたが、子供だからよ」
ニコは、しばらく考えて、それから、にっと笑った。
「じゃあ、いまのうちだね」
(――そう。いまのうちだわ)
この子は、来年には、九つになる。そのうち、背が伸びて、声が変わって、村の人が本当のことを言わなくなる日が来る。
そのときには、別のやり方を覚えているだろう。
「行ってきます、お姉ちゃん!」
「行ってらっしゃい」
ハーゲン殿の馬車が、動き出した。小さな背中が、荷台の縁から、いつまでも手を振っている。
*
門が閉まったあと、わたしは、しばらくそこに立っていた。
(――行ってしまったわ)
胸の中で、何かの帳が、一行、閉じた気がした。去年の春、この子は、そろばんを「玉っころ」と呼んで、袖を引いてきた。
去年の秋、留守を任せた。今年の夏、板の前に立った。
そして今日、わたしの見ていないところへ、自分の紙を持って、出ていった。
(この子の帳は、もう、わたしの帳ではないのね)
寂しいはずなのに、なぜか、口の端が上がっていた。
「奥方様」
ギードが、そっと横に来た。
「……お帰りになりませんと。風邪を召します」
「ええ」
わたしは、門から離れながら、言った。
「ギード。帳所の帳の、右の欄に、一行、書いておいてくれる?」
「なんと」
「――ニコ。冬、南へ。返し、一つ目」
その日から、わたしは、南から来る荷馬車を、数えるようになった。
八つの子が、はじめて自分の紙を持って、門を出る回でした。
ニコは、絵を「拒まれた」ではなく「届かなかった」と数えています。この数え方の違いが、この子をもう一度あの領へ向かわせます。行かせるかどうかを決めるのは、初陣を十四で経験した人でした。「初めての血は、俺が見ている前で見ろ」――先代の言葉が、こういう形で使われるとは、書いている側も思っていませんでした。
次回・第75話「小僧の帳など」。手紙が、拙い字で届きます。
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