第73話:読めない人の、読み方
「田舎者に読んで聞かせたところで、分かりますまい」
その言葉のあと、広間は、少しのあいだ、静かだった。わたしは、扇を閉じたその手を見ていた。
爪は短く切りそろえてある。指の関節が、少し太い。若い頃、乗馬をした人の手だ。侮っているという顔は、していない。むしろ、親切なことを言った顔をしている。
(――この方は、意地悪で言っているのではないのね)
そう思ったほうが、かえって、たちが悪い。
「アイヒベルク様」
わたしは、なるべく、いつもの声で言った。
「読んで聞かせて、分からなかったことが、おありですか」
「もちろん、ございませんわ」
女伯は、あっさり答えた。
「試したことがございませんもの。試すまでもないでしょう? うちの村の者は、字が読めません」
「読み上げは、字が読めない方のためのものです」
「ええ。ですから、無駄だと申し上げているのです」
まったく、噛み合わない。噛み合わないまま、この方は、いっそう感じよく、微笑んだ。
「読み上げをした村を、わたくし、一つ存じておりますのよ。三年前、東のほうで。……そのあと、どうなったとお思いになります?」
「――さあ」
「揉めましたの。数が分からぬ者ほど、口を出しますから」
*
その日の午後、女伯は、帳所を見学した。
長机六つ。腰掛け四十。四つの窓。四十一人が、板に向かって、算定の式を写している。
女伯は、入り口に立ったまま、しばらく黙って眺めていた。
「――たいしたものですわね」
「まだ、始めたばかりです」
「いえ、本当に。……これだけの数を、よく、お集めになりました」
その言葉には、嘘がなかった。感心している。だからわたしは、少しだけ、望みを持った。
「アイヒベルク様。ご覧のとおり、字の読めない方も、おいでです。あちらの、いちばん後ろの」
ヨストさんが、太い指で、玉を弾いていた。
「あの方は、来た日、自分の名前も書けませんでした。いまは、村の実りの欄を、一人で埋めます」
「まあ」
「――アイヒベルクの村の方も、同じことができます」
女伯は、その方向を、しばらく見ていた。
そして、言った。
「ご立派ですこと。……ですが、あれは、そちらのやり方ですわね」
*
そのとき、板の前から、小さな影が降りてきた。
ニコだった。
手には、紙が一枚。
「あの、アイヒベルクのおばさま」
「……おばさま」
女伯の眉が、わずかに動いた。従者の一人が、慌てて口を開きかける。
「ねえ、おばさまのところの村の人、字が読めないんでしょ。だったら、これ、使ってよ」
ニコは、その紙を、両手で差し出した。わたしは、横から、それを覗き込んだ。
――思わず、息を呑んだ。
算定書だった。
八つの欄が、そっくり同じ位置にある。ただし、書いてあるのは、数字と字ではなかった。
麦の穂の絵が、束になって描いてある。束の数が、実り。その隣に、去年の束。今年のほうが、二つ多い。
式の欄には、玉の絵が、並んでいる。二十個の玉のうち、一つに色が塗ってある。二十分の一。
告げ知らせの欄には、口を開けた人の絵と、月の絵が一つ。月に一度、声に出す。
そして、いちばん下の署名の欄には、羽根ペンの絵と、その日の月の形。
「おいら、これ、三日かけて作ったんだ。ヨストさんに見せたら、これなら分かるって」
ニコは、得意そうに鼻をこすった。
「絵だから、字が読めなくても、いいだろ?」
*
わたしは、そのとき、この子を止めるべきだったのだと思う。けれど、わたしは、止めなかった。
止めるどころか――誇らしかった。
『教え方の帳』に、わたしが書いた行が、ぜんぶ、この一枚の上にあった。欄と言わない、箱と言う。先に、やらせる。その村がもう数えているものを、探す。
わたしが教えたのは、三行だ。この一枚は、その三行の、ずっと先にある。
「――アイヒベルク様。これは、うちの弟子が」
「拝見しますわ」
女伯は、白い手袋のまま、その紙を受け取った。そして、ほんの数秒、目を落とした。
数秒だった。
「まあ」
紙を持つ手が、下がった。
「――絵で、税を語るのですか」
声が、少しだけ、高くなっていた。
「アイヒベルク様」
「税は、国と領の約束ですのよ。約束を、絵で交わす家がございますか。うちの領は、三代前から、王家に紙を出しております。その紙に、麦の絵を描けと?」
「――そういう趣旨では」
「品が、ありませんこと」
女伯は、その紙を、指で、そっと押し返した。強い動作ではなかった。むしろ、丁寧に返したと言っていい。
けれど、紙は、ニコの手の届かないところで、机の縁から滑って、床に落ちた。
*
ニコは、落ちた紙を、拾わなかった。しばらく、そこに突っ立っていた。
やがて、腰を曲げて、それを拾って、両手で、しわを伸ばした。
一度。二度。
「……おいら」
小さな声だった。
「おいら、品、なくてすみません」
その子は、そう言って、頭を下げた。八つの子が、大人の言葉を、正確に真似た。真似た言葉で、自分を折った。
わたしは、そのとき、生まれて初めて、と言っていいほど、自分の中で、何かが真っ直ぐに立ち上がるのを感じた。
(――この方は)
女伯は、もう、別の話を始めている。窓の造りが良い、蝋燭が要らないのは倹しいこと、と、感じよく。
(この方は、読めない人を、はじめから、数に入れていないのだわ)
わたしは、声を荒げなかった。わたしは、この土地へ来てから、一度も声を荒げていない。荒げれば、数字が負けるからだ。
だから、そのときも、いつもの声で言った。
「アイヒベルク様。明後日、うちの検分の助手が、そちらへ伺います」
「あら。定期検分の?」
「ええ。ハーゲン殿から、正式にお話が行くはずです」
わたしは、ニコの肩に、手を置いた。その肩が、震えている。泣くのを、こらえている。
この子が泣くのを、わたしは、初めて見た。
「――そのときは、どうか、よろしくお願いいたします」
*
女伯の馬車が門を出たあと、わたしは、帳所の隅で、ニコの隣に座った。
その子は、絵の算定書を、膝の上に置いていた。しわは、もうほとんど伸びている。
「ニコ」
「……なに」
「品がない、というのはね。あれは、値札のことよ」
その子が、顔を上げた。
「値札?」
「そう。あの方は、あなたの紙に、値がつかないと言ったの。……つけられなかった、というほうが、正しいかもしれないけれど」
わたしは、その紙の、玉の絵のところを、指でなぞった。
「この二十個の玉。……あなた、なぜ、二十個にしたの」
「だって、二十分の一だから」
「二十分の一なら、線を一本引いて、上に一、下に二十と書けば済むわ。それが、この国の書き方よ」
「うん。でも、それだと、ヨストさん、分かんない」
「――ええ」
わたしは、うなずいた。
「だから、あなたは、玉を二十個描いた。二十個描くのに、どのくらいかかった?」
「三日」
「三日ぶんの手間が、この一枚に入っているのよ」
その子は、しばらく、自分の紙を見ていた。
「……三日って、高い?」
「安いわ。とても」
わたしは、はっきり言った。
「ヨストさんの村の人が、これから何十年も自分の税を検められるようになるなら、三日は、ただ同然です」
ニコは、袖で、乱暴に目をこすった。
「じゃあ、おいら、もう一枚、描いてもいい?」
「――ええ。何枚でも」
声を荒げない主人公が、いちばん静かに怒る回でした。
ヒルデガルトは意地悪ではありません。むしろ親切なつもりです。読めない人を数に入れていない、というのは悪意ではなく前提で、前提は、悪意より頑丈です。紙が落ちる場面は、乱暴に破らせないほうが痛いと思って、丁寧に押し返させました。そして、八つの子が大人の言葉を正確に真似て、自分を折ります。
次回・第74話「弟子の、はじめての検分」。門を出るのは、その子です。




