第72話:南から、格式が来ました
秋が深まって、辺境の刈り入れが済んだ。新法での、最初の算定だ。
わたしは、この領の算定書を、自分では書かなかった。ニコとヤンとリーゼの三人に書かせて、わたしは横で、間違えたところに丸をつけるだけにした。
丸は、六つついた。去年のわたしなら、三日で書き上げた紙に、四日かかった。
(――四日で、三人が書けるようになったなら、安いわ)
ハーゲン殿が立ち会って、署名を入れた。日付は、同じ日。広場に貼り出して、月末に、マルタが読み上げた。
読み上げの市は、いつのまにか、市になっていた。
法が求めているのは、算定を月に一度、声に出して知らせることだけだ。それだけのことに、なぜか村の衆が総出で集まり、なぜか焼き菓子の屋台が出て、なぜか終わったあとに一杯やる流れになっている。
「――今年の実り、麦、千二百俵! 去年より、六十俵、多い!」
マルタの声が、広場の端まで届く。
「掛ける、二十分の一! 六十俵! これが、今年うちが納める分だよ!」
「たけえ!」と、どこかから声が飛ぶ。
「たかかないよ! 去年も二十分の一だ! 実りが増えたから、納める分も増えただけさ! 式は、そこの紙に貼ってあるよ、文句のある奴は検算しな!」
どっと笑いが起きた。わたしは、少し離れたところで、それを見ていた。数字が、笑い声のなかで動いている。
去年まで、この広場に立っていた高札には、額だけが書いてあった。読める者はいなかった。読めないから、誰も文句を言わなかった。誰も文句を言わないから、額は毎年、上がった。
(――読み上げは、たった一行の定めなのに)
そこまで済んだ日の夕方に、南から、使いが来た。
*
書状には、金泥で縁取りをした封蝋が押してあった。紋章は、樫の葉を三つ組み合わせたもの。
「アイヒベルク領でございます」
ギードが、少し声を落とした。
「グラウフェルトの南隣。……古い家でございますよ。うちより、三代は古い」
「ご当主は」
「ヒルデガルト・フォン・アイヒベルク女伯。五十に、手が届くころでございましょう」
書状の中身は、簡潔で、非の打ち所のない文面だった。
――新徴税法の書式につき、貴領にて手ほどきをなさっていると聞き及びました。近日、当主自ら参上し、教えを乞いたく存じます。
「……当主が、自ら?」
わたしは、その一行を、二度読んだ。家令でも、書記でもなく。
「――ずいぶん、熱心な方ね」
*
書状には、添え物があった。アイヒベルク領の、今年の算定書の写しだ。
「参考までに、と書いてございますな」と、ギードが言った。「教えを乞う前に、いまの出来を見せておく、という趣向でございましょう」
わたしは、それを広げた。そして――しばらく、言葉を失った。八つの欄が、一つ残らず、埋まっている。
実りの総量。去年との比べ。算定の式。式の飾りは削がれ、子供でも検算できる形になっている。告げ知らせの日取り。検分使の署名は、算定書と同じ日付。
「……ギード」
「はい」
「これ、うちの算定書より、良く書けているわ」
「まさか」
「本当よ。ここ、見て。式の三段目。わたしなら、この掛けを一度に書くところを、二段に割ってある。……このほうが、読む側は楽です」
(――手ほどきなど、要らない方ね)
わたしは、その紙を、しばらく眺めていた。眺めながら、少しずつ、居心地が悪くなっていった。何かが、おかしい。
けれど、どこがおかしいのかが、分からない。
*
分かったのは、使いの者を見送るときだった。門まで見送りに出て、わたしは、その人の顔を、初めて正面から見た。
頬が、こけている。上等な仕着せを着ているけれど、袖の中の腕が、細い。
「――ご無礼を承知で、伺っても?」
「はい」
「アイヒベルクは、今年、麦は」
「豊作でございました」
その人は、誇らしげに答えた。
「一昨年より、二割ほど。おかげさまで」
「……そう」
わたしは、それ以上、聞けなかった。
*
その晩、わたしは、その算定書を、もう一度、机に広げた。蝋燭を近づけて、八つの欄を、一つずつ、指でなぞる。
実り。書いてある。比べ。書いてある。式。書いてある。しかも、みごとに。
告げ知らせの日取り。――書いてある。
(書いてあるのよ。……全部)
わたしは、指を、その欄の上で止めた。告げ知らせの日取り。
新法では、算定を広場に貼り出し、月に一度、読み上げの市を立てることになっている。それを、いつやったかを書く欄だ。
この紙には、日付が入っている。
(――日付が、入っているだけだわ)
紙は、やったと言っている。やったかどうかは、紙には、書けない。
*
十日後、ヒルデガルト・フォン・アイヒベルクが、辺境へ来た。
馬車は二台。従者は六人。着いてすぐに、館の広間の椅子の高さを、従者が測った。
現れた女伯は、背が高く、姿勢がよく、灰色の髪をきれいに結い上げていた。
「グラウフェルトの奥方様。お目にかかれて光栄でございますわ」
礼は、完璧だった。指の先まで、間違いがない。
「エルナ・フォン・グラウフェルトです。……遠路、ようこそ」
「まあ。噂に聞くよりも、ずっとお若くていらっしゃる」
にこやかで、隙がなく、気持ちのよい話しぶりだった。
半刻ほど、天気と、麦の出来と、亡くなった先代辺境伯の思い出の話をした。
話は面白かった。この方は、先代を若い頃から知っていて、狩りが下手だったこと、酒に弱かったこと、抗議文を書いては破っていたことまで、知っていた。
「――あの方は、律儀すぎましたのよ」
ヒルデガルトは、しみじみと言った。
「賦課が倍になったとき、うちにも回状が来ましたわ。抗って潰れた家を、わたくしは三つ知っております。ですから、うちは、抗いませんでした」
「――ええ」
「代わりに、書式は、必ず整えました。中央がどんな紙を寄越しても、こちらの紙に隙がなければ、それ以上は入ってこられませんもの」
(……なるほど)
この方の完璧な算定書には、そういう来歴があるのだ。
紙は、盾だった。
三十年、この方は、盾を磨き続けてきた。そのあいだ、わたしは、頃合いを計っていた。
「――アイヒベルク様。お送りいただいた算定書、拝見しました」
「お恥ずかしい」
「いいえ。本当に、よく書けておりました。……手ほどきなど、要らぬほどに」
女伯は、扇の陰で、上品に笑った。
「うちの家令が、なかなかの筆でしてね」
「一つだけ、伺ってもよろしいですか」
「なんなりと」
わたしは、その紙の、七つ目の欄を、指で示した。
「この、告げ知らせの日取り。……この日、広場では、どなたが読み上げを?」
ヒルデガルト・フォン・アイヒベルクは、少しだけ、首を傾げた。心底、不思議そうな顔だった。
「読み上げ?」
「はい」
「――ああ。あれは、省いておりますの」
女伯は、扇を閉じた。そして、まことに感じよく、こう言った。
「田舎者に読んで聞かせたところで、分かりますまい」
第72話、お読みいただきありがとうございます!
今回は、書式が完璧なのに領民が痩せている、という形の敵を出しました。バルトロトは数字を隠し、ローデリヒは数字を作り、オイゲンは数字を運びましたが、この方は数字を正しく書いています。ただ一行、「告げ知らせ」を省いているだけです。紙は「やった」と言えますが、やったかどうかは紙には書けない――そこが、この章の入り口になります。
次回・第73話「読めない人の、読み方」。八つの子供が、絵を一枚、差し出します。
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