第71話:作れるのかね、と言われました
勝ったはずなのに、その週、わたしは、ひどく機嫌が悪かった。自分では、そのつもりはなかった。
「財務官様」
三日目の夕方、ギードが、遠慮がちに執務室の戸を叩いた。
「その、なんでございますな。……厨房の者が、申しておりました。今週の奥方様は、笑い方が、板みたいだと」
「板」
「板でございます。返事はなさる、笑いもなさる、だが、めくると裏が白い、と」
(――マルタね、それは)
わたしは、筆を置いた。言い当てられている。悔しいくらいに。
*
広場の朝から、七日が経っていた。うまくいっている。
回し費えの算定書は、ハーゲン殿が財務寮を通して財務院へ回してくれた。署名の日付の改めも、地方の申し合わせとして、近隣十二領がその場で受けた。
帳所には、代わりに、人が増えた。
テオドールという若い検分使は、冬から来ると言って、いったん巡回へ戻った。去り際、あの人は帳所の帳の左の欄に、自分で名前を書いていった。
(……全部、うまくいっているわ)
なのに、わたしの頭の中では、南の道へ出ていく荷馬車の音が、まだ鳴っている。
――潰すのは、上手いね、あんたは。
――だが、作れるのかね。
*
その日の午後、東の納屋の屋根が、上がった。
麦の袋を三十年積んできた建物が、板を張り替えられ、窓を四つ増やされて、まるきり別の顔になっている。中に入ると、木と漆喰の匂いがした。
長机が六つ。腰掛けが四十。正面の壁一面が、炭で書ける黒い板だ。
「――どうです、財務官様」
大工の棟梁が、得意げに胸を張った。
「窓を増やしましたで。冬でも、昼のうちは蝋燭が要りません」
「蝋燭が要らない」
わたしは、その一言に、しばらく引っかかった。
蝋燭は、費えだ。四十人ぶんの蝋燭を、冬のあいだ毎日灯せば、年に十グルデンは飛ぶ。
窓を四つ増やす手間は、村の衆が、ただでやった。
(――この人たちは、帳をつけていないのに、勘定が合っているわ)
「……棟梁。ありがとう」
「なあに。あっしの孫も、ここへ入りますんで」
ニコと弟子の子らが、走り込んできて、板に大きく落書きをした。麦の穂と、俵と、そろばんの玉。
わたしは、その落書きを消さずに、隅に小さく、日付を書き足した。
*
「ギード。一つ、頼まれてくれる?」
「はい」
「請負のお役が廃されたとき、職を失った人が、何人いたか。……調べられるかしら」
ギードが、白い眉を上げた。
「何人、でございますか」
「ええ。名前が要ります」
「名前」
「数だけだと、たぶん、わたしはまた、数として扱ってしまうから」
老副官は、しばらくわたしを見て、それから、深くうなずいた。
「――ハーゲン殿にお願いすれば、財務寮の古い帳に、請負の口の目録がございましょう」
*
返事は、十日で来た。分厚い綴りだった。ハーゲン殿の几帳面な字で、こう添えられていた。
『廃止時、請負の口 三百二口。うち、差配 三百二名。差配の下に、書き手・取り立て・帳付けが、口によりて三名から十名。財務寮の把握しうる限り、総勢およそ千八百名。名簿は、口ごとの申告に基づくため、下の者の氏名は、半分も残っておりませぬ』
わたしは、その一行を、二度読んだ。半分も、残っていない。
(――当たり前ね)
請負の差配は、届出をする。その下で紙を書いていた者は、届出をしない。
わたしが御前で数えた「年およそ二万グルデンの中抜き」には、彼らの名前が、一つも入っていなかった。中抜きの額には、名前が要らない。額があれば、立証できる。
けれど、その仕組みを潰したとき、消えたのは額ではなく、千八百の暮らしだった。
*
その晩、わたしは、大きな紙を一枚、机に広げた。そして、綴りに残っている名前を、書き写し始めた。
一人ずつ。
差配三百二名。その下の、名の残っている者、七百九十四名。途中で、ヴォルフ様が入ってきた。
「何をしている」
「――書き写しています」
「見れば分かる。何のためにだ」
わたしは、筆を止めなかった。
「数えていなかったからです」
ヴォルフ様は、机の向かいに座って、しばらく黙って、わたしの手元を見ていた。紙が、名前で埋まっていく。
半分ほど埋まったところで、この人が、ぽつりと言った。
「――こいつらは、悪党だったんだろう」
「差配は、そうです。取り立てて、差額を懐に入れていました」
「では、悪党が職を失っただけだ」
「ええ」
わたしは、うなずいた。うなずいて、それから、続けた。
「その下で、紙を書いていた人は、差額を、一グルデンも受け取っていません」
筆が、また、動き出す。
「取り立てに行った人は、村で罵られました。……そして、廃止のとき、いちばん先に、いなかったことにされました」
*
「――取り立ての者を、俺は、覚えている」
ヴォルフ様が、低く言った。
「親父の代だ。兵を連れて来る使者の、いちばん後ろに、いつも痩せた男がいた。紙と矢立を持って、蔵の中の袋を数えて、書いていた」
「……ええ」
「あいつが悪いと、俺は、ずっと思っていた」
この人は、両手を組んで、その上に顎を乗せた。
「あの男の名を、俺は知らん。……たぶん、その紙にも、無いんだろう」
わたしは、筆を止めて、紙を見た。名前のある者。千九十六。名前のない者、およそ七百。
「――たぶん、ありません」
「そうか」
ヴォルフ様は、それだけ言って、しばらく黙っていた。それから、ぶっきらぼうに、蝋燭の芯を切った。
*
夜半、紙が、名前で埋まった。
千九十六名。
残りの、名前のない七百余名の分は、空けておいた。空けたところに、線だけを引いた。
わたしは、その紙を、しばらく見ていた。
(潰した数は、数えました)
御前で、二万グルデンを数えた。三百二口を数えた。三十年分の付け替えを数えた。
(――作った数を、わたしは、一つも数えていない)
帳所の帳を開く。
左の欄に、四十一の名前。右の欄には、返しが、まだ十九。一つの学び舎で、四十一人。千八百のうちの、四十一人。
(……足りないわ)
けれど、その足りなさに、わたしは初めて、はっきりした形を与えられた気がした。数えていないものは、増やせない。
数えた瞬間から、それは、増やせる。
*
翌朝、わたしは、帳所の帳の見返しに、新しい欄をひとつ、作った。題を、こう書いた。
『作った数』。
一行目に、こう書く。
――帳を教えて、暮らしが立った者。
いまのところ、この欄に書ける名前は、四つしかない。ニコ。ヤン。リーゼ。マルタ。
四つとも、まだ「暮らしが立った」とは言えない。ニコは子供だし、マルタは村長だし、ヤンの日当は月に半グルデンだ。
(――四です)
わたしは、その数字を、じっと見た。三百二を潰して、四を作った。これが、いまのわたしの帳の、両側だ。
「――キーファーさん」
わたしは、誰もいない部屋で、あの人の名を呼んだ。
「作ります。……四から始めます」
潰した数は数えていたのに、作った数を数えていなかった、という回でした。
エルナは御前で二万グルデンを数え上げた人です。中抜きの額には名前が要りません。ですが、仕組みを潰したときに消えたのは額ではなく、千八百人の暮らしでした。名前を書き写す作業を丸一晩やらせたのは、彼女に「数」ではなく「人」で受け取らせるためです。四という数字の心細さが、この章の出発点になります。
次回・第72話「南から、格式が来ました」。完璧な算定書と、痩せた使いが、同じ馬車で来ます。
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