第70話:良い法は、ただでは回りません
初秋の朝、辺境の広場に、人が集まった。
近隣十二領の代表。帳所の二十九人。村の衆。検分使ハーゲン殿と、その下の若い検分使が二人。
そして、いちばん後ろに、ゲオルク・キーファーが立っていた。招いたのは、わたしだ。
(――逃げないのね、この方も)
広場の正面には、大きな板を二枚、立ててある。まだ、どちらも白い。
「今日は、断罪をいたしません」
わたしは、最初に、そう言った。
「詫びを、いたします」
*
一枚目の板に、わたしは、数字を書いた。
――代書料。一枚、一グルデン。
――通しの分。三グルデン。
――近隣十二領、年におよそ三百枚。
――〆て、年 三百グルデン。
「ここ一年、この地方で、算定書を書くという商いに、これだけの銭が動きました」
ざわめきが起きた。三百という数の重さは、この広場の全員が分かる。辺境の年の賦課が、四百だ。
「――高い、と思われますか」
わたしは、広場を見渡した。
「わたしも、そう思いました。ですから、調べました」
二枚目の板に、歩いていく。そして、そこに、別の数字を書いた。
――検分使、二十二名。一人あたり、年およそ四百枚の立ち会い。
――俸給、一人 四十グルデン。三十年、据え置き。
――秣代、宿代。持ち出し。
――新法を回すために、増やすべき人。七名。
――払われていない額。年 二百八十グルデン。
わたしは、炭を置いて、二枚の板の真ん中に立った。
「三百グルデンと、二百八十グルデン」
広場が、しん、となった。
「この二つは、ほとんど、同じ額です」
*
「――キーファーさん」
わたしは、いちばん後ろの人に、呼びかけた。人垣が割れて、ゲオルクが、その場で頭を下げた。
「はい」
「あなたが去年からお稼ぎになったものは、悪銭ではありません」
彼が、顔を上げた。
「あれは、この国が、検分使に払わなかった分です」
わたしは、二枚の板を、順に指した。
「払われるべき人に払われなかった二百八十グルデンが、宙に浮きました。浮いた仕事は、誰かがやらなければ、村が困ります。だから、あなたが拾った。そして、拾った分の値を、村から取った。……それだけのことです」
「……財務官様」
「あなたが悪いのではありません。悪いのは、二百八十を書かなかった、わたしの法です」
わたしは、深く、頭を下げた。顔を上げると、ゲオルクは、口を半分開けたまま、立ち尽くしていた。
*
そこから先は、早かった。わたしは、三つの改めを、板に書いた。一つ。署名は、算定書の日付と同じ日でなければ、効かない。
「白紙に先に名前を置くことは、これで、できなくなります。……テオドール殿」
いちばん前で、若い検分使が、びくりと肩を震わせた。わたしは、その人の名を呼んだだけで、何も言わなかった。
言うべきことは、二つ目にある。二つ。回し費えを、算定して、公開する。
「新しい書式です。その法を回すのに、人が何人要り、いくら要るのかを書きます。書けないなら、その法は、施行できません」
三つ目を書くとき、わたしは、少しだけ、手が止まった。三つ。帳所で学んだ者は、代書をしない。教える。
「代書は、罰しません。手間には値がつきます。……ただ、この地方では、値のつくものが、もう一つ増えます」
わたしは、板に、最後の一行を書いた。
――教えた者に、村から、謝礼を。
「一人に教えて、銀貨。三人に教えて、一グルデン。村の寄り合いで決めていただいて構いません。……四グルデンよりは、ずっと安いはずです」
家令の一人が、恐る恐る手を挙げた。
「あの、それでは、あの先生方の飯の種は」
「――ええ。無くなります」
わたしは、はっきり答えた。
「その代わり、教える側に、飯の種が立ちます」
*
そこで、いちばん前の若い検分使が、突然、立ち上がった。テオドールという人だ。顔が、紙より白い。
「――財務官殿」
声が、震えていた。
「私を、罰してくださいませ」
ざわめきが、一度に、引いた。
「あの十四枚は、私が置きました。誰にも命じられておりません。二つの村から同じ日に呼ばれて、片方に、間に合わせようとして」
「――ええ」
「言い訳を、いたしません。あれは、旦那様がたの税を、白紙にした紙です。……私が、この場で寮を辞します。そうすれば」
「テオドール殿」
わたしは、その人の言葉を、一度、止めた。
「あなたが辞めたら、あの十四の村の検分は、来年、誰が回りますか」
若い検分使が、口を開けたまま、止まった。
「二十二人が、二十一人になります。一人あたり、十四の領が、十五になります。……そうしたら、来年、白い紙は、十四枚では済みません」
「――しかし」
「罰は、要ります」
わたしは、その人の目を見て、言った。
「ですから、こうしてください。今年の冬、帳所へ来てください。そこで、この地方の者に、算定の立ち会いを、教えてください」
「……私が、教えるのですか」
「ええ。教えれば、来年、あなたを呼ぶ村が減ります。呼ばれる数が減れば、あなたは、白い紙を書かずに済みます」
わたしは、少しだけ、声を落とした。
「――それが、いちばん重い罰だと、わたしは思います。逃げるより、ずっと」
テオドールは、しばらく突っ立っていた。それから、深く、腰を折った。ハーゲン殿が、その背中を、黙って見ていた。
*
広場が、ゆっくりと、ざわめき始めた。
肝煎りたちが、隣同士で、そろばんを弾いている。ヨストさんが、指を折って数えている。マルタが、大声で「あたしゃ、もう三人教えたよ!」と言って、笑い声が起きた。
わたしは、板の前に立って、その音を聞いていた。
(――計算が、成り立つわ)
回し費えを公開すれば、財務院は、払わないという判断を、公の紙に書かなければならなくなる。
書けば、なぜ払わないのかを問われる。問われれば、いつかは、払う。
そして、その日までのあいだ、この地方の村は、四グルデンではなく、一グルデンで、隣の家から学ぶ。
「――これは、黒字にできます」
わたしは、そう言った。自分でも、久しぶりに口にした言葉だった。
*
散会のあと、広場の隅で、ゲオルク・キーファーが、荷をまとめていた。わたしは、そちらへ歩いていった。
「キーファーさん」
「……財務官様」
彼は、荷を置いて、いつもどおり、深く頭を下げた。いつもどおりの、腰の低さ。いつもどおりの、丁寧な声。
「みごとな、お手前でございました」
「――お詫びは、本心です」
「存じております。だからこそ、たまりません」
彼は、少し笑った。
「罵ってくださったほうが、まだ、恨みようがございました」
わたしは、何も言えなかった。ゲオルクは、荷馬車の轅に手をかけた。そして、こちらを振り返らずに、言った。
「財務官様。あんたは、また、わしらの飯の種を、潰しなさった」
「――ええ」
「請負のときも、そうでございました。あれは悪い仕組みでした。ええ、悪い仕組みでした。潰して当然でございます」
彼の背中は、まっすぐだった。
「潰すのは、上手いね、あんたは」
そこで、初めて、こちらを見た。腰の低い、親切そうな、いつもの顔で。
「――だが、作れるのかね」
*
わたしは、答えられなかった。答えを、持っていなかった。
荷馬車が、南の道へ出ていく。時計回りに十二の領を回る、あの、よくできた道順へ。
秋の日が、その屋根に当たっている。
板の前では、まだ、村の衆が二枚の数字を見上げている。三百と、二百八十。わたしが今日、初めて並べて見せた数字。
わたしは、その数字を、もう一度、見た。三百は、潰した数だ。
(――作った数を、わたしは、まだ、一つも数えていないわ)
公開の場で、断罪の代わりに、詫びから始めた回でした。
三百グルデンと二百八十グルデン。この二つが並んだ瞬間に、ゲオルクは「悪党」ではなくなります。彼が拾ったのは、国が払わなかった穴でした。そのうえで、彼の商いは無くなる。正しいことをして、正しく人の職を奪った――その帳尻を、エルナはまだ合わせられません。最後の一言に、答えを返せないまま章を閉じます。
次回・第71話「作れるのかね、と言われました」。数えていなかったほうの数字を、数え始めます。




