第69話:赤字は、設計ミスです
ハーゲン殿は、三日、館に留まった。その三日で、わたしは、財務寮の帳を、初めてきちんと検めた。
「――定員、三十名」
わたしは、そろばんに手を置いた。
「うち、諸領を回る検分使が、二十二名。残る八名が寮内の記録役。……これで、王国じゅうを?」
「そのとおりです」
「一人あたり、いくつの領を」
「およそ、十四」
(十四)
ぱちん、と玉を上げた。
新法の定めでは、算定書一枚につき、立ち会いと署名が一度。定期検分が、数年に一度。検め直しの申立てがあれば、そのつど。
十四の領で、村と代官所を合わせて、年に三十枚。
「一人あたり、年に四百枚の立ち会いですね」
「――そうなります」
「一年は、三百六十日です」
わたしは、玉から手を離した。
「馬でも、無理です」
*
俸給を、次に検めた。検分使一人、年に四十グルデン。三十年、一度も動いていない。
「秣代は」
「持ち出しです」
「宿は」
「持ち出しです」
「では、テオドールという方の手取りは」
ハーゲン殿は、少し黙ってから、答えた。
「――三十を、切っているはずです」
わたしは、筆を置いた。
わたしが去年、辺境の大机の上で作った書式。マルタが一行入れ、ニコが飾りを削ぎ、ヴォルフ様が武装を禁じ、ハーゲン殿が定期検分を書き足した、あの一枚。
あの一枚が、この国の二十二人に、年四百枚の立ち会いを課した。
そして、その二十二人の俸給の欄を、わたしは、一度も見ていない。
「ハーゲン殿」
「はい」
「あの法案を作ったとき、わたしは、あなたに、条文を検めていただきました」
「いただきました」
「――あのとき、どうして、これを、おっしゃらなかったのですか」
ハーゲン殿は、しばらく、答えなかった。それから、記録調ではない声で、言った。
「……申し上げれば、法案が、通らぬかと」
わたしは、その言葉を、そのまま受け取った。
分かる。あの御前決算の場で、「この法を回すには、年に三百五十グルデン余計にかかります」と言えば、財務卿は、その一点で押し返しただろう。国庫の赤字は誰が埋める、と、あの人は言った。三百五十を上乗せした法案を、あの日、通せたとは思えない。
「――ハーゲン殿。あなたは、正しい判断をなさいました」
「なぐさめは、要りません」
「なぐさめではありません。順番の話です」
わたしは、財務寮の帳を閉じた。
「あの日、費えを書いていたら、法は通りませんでした。通らなければ、賦課の算定は今日も公開されておらず、請負も残っていました。……法が先で、正しかったのです」
「では」
「ただ、費えの話を、一年、忘れたのが、わたしの落ち度です」
通してから書けばよかった。通した翌日に、この紙を作るべきだった。
わたしはあの日、王城の階段を下りながら、勝った、と思った。祝いの膳の日取りを考えていた。結婚式の花の色を、ヴォルフ様と相談していた。
その一年のあいだに、二十二人が、自分の秣代を払っていた。
*
その晩、わたしは、そろばんの前で、手が止まった。紙の上には、新しい線を引いてある。左に費え、右に実り。
左側に、書くべき数字は、もう出ている。増員七名。俸給、一人四十グルデン。秣と宿の実費、一人年に十グルデン。
締めて、年に三百五十グルデン。そのうち、いま国が払っていないぶんが、二百八十グルデン。
(――二百八十)
わたしは、その数字を、しばらく見ていた。新徴税法は、正しい。
算定は公開され、請負は全廃され、検め直しは常設され、取り立てに剣は来ない。
その正しい法を、この国は、年に二百八十グルデン、払わずに回している。
払われていない二百八十グルデンは、消えたわけではない。秣代になって、検分使の懐から出ていった。
十四枚の白紙になって、代官所の棚に積まれた。そして――四グルデンの代書料になって、ホルツ村の蔵から出ていった。
(全部、同じ穴から出ていたのだわ)
わたしは、筆を持った。持って、そのまま、動かせなくなった。
*
「エルナ」
いつのまにか、戸口に、ヴォルフ様が立っていた。
「まだか」
「……もう少しです」
「その、もう少しは、何刻ぶんだ」
答えられなかった。わたしは、そろばんの縁を、指で押さえていた。手が、少し、冷たい。
「ヴォルフ様」
「うん」
「わたしは、間違えました」
自分の声が、思ったより小さくて、驚いた。
「あの法は、正しいのです。……正しいのに、回りません。回すのにいくらかかるかを、わたしは、一度も、計算しませんでした」
ヴォルフ様は、部屋に入ってきて、机の向こう側の椅子に、どさりと座った。
「二百八十グルデン、でございましたか」と、いつのまにか戸口に来ていたギードが言う。「国が、払っておらぬぶんが」
「ええ」
「では、その二百八十は、いま、誰が払っておるのです」
「――払っていません」
わたしは、答えた。
「誰も払っていないから、テオドールという方が、白い紙に名前を書きました。ホルツの村が、四グルデン払いました。払っていないぶんは、いちばん弱いところが、いちばん高い値で、代わりに払っています」
言い終わって、喉の奥が、詰まった。御前で二日立った。三十年前の抗議文を出した。国の帳簿を開かせた。
そうやって作った法が、いちばん弱いところに、新しい値札を貼っていた。
「……わたしは」
そこまで言って、続きが出なかった。しばらく、部屋が静かだった。やがて、ヴォルフ様が、腕を組んだまま、低く言った。
「エルナ。お前が、俺に、言ったことがある」
「……何を」
「去年だ。この館の、下の広間で」
この人は、算術ができない。式は読めない。数字も覚えられない。けれど、言葉だけは、恐ろしいほど、正確に覚えている。
「――赤字は天災じゃありません、設計ミスです」
わたしは、顔を上げた。
「あのとき、お前は、そのあとに、こう続けた」
ヴォルフ様は、まっすぐこちらを見た。
「設計し直せば、黒字にできる、と」
(――ああ)
胸の内側で、何かが、静かにほどけた。
赤字は、天災ではない。
設計ミスだ。
それは、他人の設計を裁くための言葉ではなかった。自分の設計にも、同じように当てはまる言葉だった。当たり前だ。わたしは、それを、この一年あまり、他人にばかり向けていた。
「――ヴォルフ様」
「なんだ」
「もう一度、言ってくださいますか」
「……二度は、恥ずかしい」
「お願いします」
この人は、うんざりした顔をして、それでも、ちゃんと言った。
「設計し直せば、いい」
わたしは、筆を取った。
*
夜が明けるまでに、わたしは、新しい書式を一枚、作った。題は、こう書いた。
『回し費えの算定書』。
欄は、五つ。
その法を回すのに要る人の数。一人あたりの俸給。馬と宿の実費。合わせた年の額。そして最後に――誰が、それを払うか。
「……法の書式を作ったなら、その法を回す費えの書式も、作らねばならなかったのです」
朝、目の下に隈をこしらえたわたしを見て、ハーゲン殿は、初めて、はっきりと笑った。
「財務官殿。三十年、財務寮の誰も、その紙を作りませんでした」
「作らせなかったのは、たぶん、そのほうが安く見えたからです」
わたしは、書式を、その人に差し出した。
「――費えを書かない法は、安いのではありません。誰かに、こっそり払わせているだけです」
この作品でいちばん有名な台詞を、エルナが自分で食う回でした。
「赤字は天災じゃない、設計ミスだ」は、これまでずっと、腐った代官や中央に向けて放たれてきた言葉です。それを、去年、一度聞いただけのヴォルフが一字一句覚えていて、いちばん折れたときに返してくる。式の読めない人が、いちばん大事なところで正確なのが、この夫婦の形だと思っています。
次回・第70話「良い法は、ただでは回りません」。二つの数字が、広場で並びます。
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