第68話:署名は、売り物ではありません
巡回の一組目が帰ってきたのは、七日後だった。マルタは、日に焼けて、声を二割ほど大きくして帰ってきた。
「財務官様! ホルツの衆、三つどころか、五つ埋めましたよ!」
「五つ?」
「肝煎りの婆さんが、また、頭がいいのなんの。あそこの村、麦の俵をぜんぶ数えて縄で括る習わしがありましてね。縄の数を数えりゃ、実りの欄はもう埋まってるじゃないかって」
(――村ごとに、もう帳があるのね。名前が違うだけで)
わたしは、その話を、『教え方の帳』の六行目に書いた。
――その村が、もう数えているものを、探す。
*
問題が出たのは、二組目だった。東のシュタルから帰ったヤンが、館へ着くなり、まっすぐわたしの執務室に来た。
いつもの無口が、いつもより、固い。
「財務官様。これ、変です」
差し出されたのは、算定書だった。シュタル領の、今年の分。わたしは、それを受け取って――手が、止まった。
八つの欄のうち、七つが、白い。埋まっているのは、いちばん下の一行だけだった。
検分使の署名。
「……ヤン。これは、どこで」
「代官所の、棚です。おれ、書式を教えに行ったので、見本を見せてくださいって頼んだら、これを」
「棚に、何枚?」
「――十四枚」
わたしは、椅子から立ち上がっていた。
「十四枚、全部、こうなの?」
「はい。全部、いちばん下だけ、名前が入ってます」
*
執務室の机に、十四枚を並べた。真っ白な紙が、十四枚。いちばん下の欄にだけ、同じ筆跡の名前が、十四。
(――これは)
わたしは、その一枚を、蝋燭に近づけた。日付は、入っていない。当然だ。条文は、署名の日付を求めていない。
つまりこの紙は、いつ書かれた算定書にでも、なれる。
来年の分にも。去年の分にも。もし賦課が高すぎると誰かが言い出したら、その場で作られる、別の分にも。
わたしが御前で二日立って通した、あの一行。不当な数字を止めるはずの、たった一行。
それが、十四枚の白紙になって、代官所の棚に積んである。
「ヤン」
「はい」
「これを持ってきてくれて、ありがとう」
その子は、少しだけ、肩の力を抜いた。
「……おれ、あそこで、思ったんです」
「なあに」
「もし、おれがあの先生のところへ行ってたら。この紙を、埋める側だったな、って」
*
その日の午後、わたしは十四枚のうちの一枚を、広間へ持っていった。二十九人の前に、それを掲げた。
「これが、何か、分かる方は」
しばらく、誰も答えなかった。やがて、修道院の会計役の人が、おそるおそる手を挙げた。
「……白紙の、算定書でございましょうか」
「ええ。ですが、下をご覧ください」
前列の何人かが、身を乗り出した。そして、家令の一人が、あっ、と声を上げた。
「――名前が、入っております」
「ええ。検分使の署名です」
わたしは、その紙を、板に貼った。
「この紙は、これから、どんな数字にでもなれます。今年の分にも、来年の分にも。もし村の誰かが賦課を高いと言い出したら、その場で作られる、別の分にも」
誰も、身じろぎをしなかった。
「わたしが去年、御前で二日立って通したのは、この一行です。皆さんの村の税に、必ず一人、立ち会った者の名前が残るように。……その一行が、いま、こういう形で使われています」
ヨストさんが、太い指で、紙の下のほうを指した。
「財務官様。……これ、わしらの村にも、来ますか」
「――来ないと、言えません」
わたしは、正直に答えた。
「ですから、覚えてください。上の欄が白いのに、下に名前だけがある紙。それを見たら、その紙は、受け取らないでください」
「受け取らんと、どうなります」
「その年の賦課が、決まりません」
わたしは、言葉を選ばずに続けた。
「困ります。とても、困ります。……ですが、困ったほうが、たぶん、安く済みます」
広間の後ろで、ヤンが、じっと板を見ていた。
*
ハーゲン殿への書状は、その日のうちに出した。
わたしは、糾弾を書かなかった。ただ、事実を三行書いた。シュタルの代官所に白紙の算定書が十四枚あること。署名は同一の筆跡であること。日付がないこと。
返事は、六日で来た。そして、返事より一日早く、ハーゲン殿本人が来た。
*
「――私の、監督不行き届きです」
検分使の礼服のまま、この人は、まっすぐそう言った。いつもの記録調の声だったけれど、いつもより、半音、低かった。
「筆跡は、確かめました。私の下の、テオドールという者です」
「若い方ですか」
「二十四になります。財務寮に入って、三年目。……真面目な男です」
ハーゲン殿は、そこで、初めて言い淀んだ。
「その、真面目な男が、なぜ」
「――お聞きに、なりましたか」
「聞きました」
わたしは、ゆっくり湯を注いだ。この人の話は、急かしてはいけない。
「新法のあと、検分の数が、増えました」
ハーゲン殿は、湯呑みに手を伸ばさずに言った。
「どのくらい、と思われますか」
「……三倍、でしょうか」
「三倍と少しです」
(――やはり)
「検め直しが常設になり、定期検分が入り、算定書には一枚ごとに署名が要る。良い法です。良い法ですが」
「――検分使の数は、増えていない」
「一人も」
ハーゲン殿は、湯呑みを、初めて持ち上げた。
「俸給も、据え置きです。財務寮の定員は、三十年、変わっておりません」
「では、テオドールという方は」
「持ち馬の秣代を、自分の俸給から出しております」
わたしは、目を閉じた。
「巡回の道中の宿も、自分持ちです。今年の春、私が申請を出しましたが、財務院の返答は、来年度の議に付す、と」
「……それで」
「彼は、二つの村から、同じ日に検分を求められました。両方へは行けません。片方には、先に署名だけを置いていった。……そういうことだと思います」
「悪銭は」
「取っておりません。それは、確かめました」
わたしは、目を開けて、十四枚の白紙を見た。
(――そう)
金のためですらなかった。間に合わせるために、順を飛ばした。
*
その晩、わたしは一人で執務室に残った。十四枚の紙を、机の上に、扇のように広げる。罰することは、できる。
テオドールという若い検分使を、寮から出す。それは、ハーゲン殿の管掌で、たぶん、明日にでもできる。
そうすれば、この十四枚は、二度と作られない。
――本当に?
わたしは、そう、自分に聞いた。三倍の仕事を、同じ人数でやらせて、秣代を自分で払わせる。その席に、次の誰かが座る。
その人は、たぶん、真面目な人だ。真面目だから、間に合わせようとして、また、白い紙に名前を書く。
去年の秋、天秤を挟んで、検分使のハーゲン殿は、わたしにこう言った。
不当だが、適法。
――悪人を倒しても、仕組みが残れば、次の悪人が座るだけ。
わたしは、その言葉を、中央に向かって考えた。ローデリヒを、ヴァルデマールを、請負徴税を、そういう目で見た。
いま、その言葉が、わたしの法に向いている。
(罰しても、次の誰かが座るだけ)
わたしは、白紙の一枚を手に取って、いちばん下の署名を、指でなぞった。
若い、きれいな字だった。丁寧に書こうとして、少し力の入りすぎた字。
「――キーファーさんは、悪くありませんでした」
わたしは、誰もいない部屋で、そう言った。
「あの方は、穴を見つけただけです」
穴を空けたのは、わたしだ。
売っていた人が、いませんでした。
白紙の署名は、誰かが金で売ったのではなく、間に合わない人が間に合わせようとして置いていったものでした。ここは、第三部でいちばん書きたかった構図です。倒すべき悪人がいる話は、実のところ、いちばん楽な話でした。倒す相手がいないのに壊れている――そういう壊れ方が、制度を直したあとには、必ず来ます。
次回・第69話「赤字は、設計ミスです」。エルナが、自分の言葉を、自分で受け取ります。




