第67話:安い先生と、高い先生
ヤンは、行かなかった。
翌朝、いつもどおり厩の前に立っていて、いつもどおり無口で、いつもどおり板の前で「ここ、間違えやすいです」と言った。
理由は、聞かなかった。
こういうことは、聞かないほうがいい。人は、自分で決めたことを、他人に説明させられると、途端に、決めたことが薄くなる。
その代わり、わたしはギードに頼んで、鍛冶屋の三男坊に、帳所の「賄いの手伝い」という名目の日当を、月に半グルデンだけつけた。
(――薬の分には、まるで足りないわ)
足りないことは、分かっていた。分かったうえで、それが、いまのこの帳所に書ける精いっぱいの右側だった。
*
その半月で、帳所には、はっきりした形ができた。午前が、子らの板。午後が、わたしの式。夕方が、自習。
十日で、二十九人のうち十九人が、八つの欄を全部埋められるようになった。
そのはずだった。
「……お帰りに?」
夏の終わり、南のホルツ村の肝煎りが、荷をまとめているのを見つけて、わたしは、思わずそう聞いた。
その人は、ばつの悪そうな顔をした。
「はあ。いや、まことに、良くしていただきましたで」
「まだ、算定の式が、途中では」
「そこなんですがな」
肝煎りは、頭をかいた。
「うちの村、麦が早いんですわ。あとひと月で、刈ります。刈ったら、賦課を決めんと、蔵が開けられん」
「――ええ」
「わし、あとふた月、ここにおれば、たぶん、書けるようになります。ですが、ふた月おったら、今年の賦課に、間に合わんのです」
わたしは、何も言えなかった。
「一グルデンと、三グルデン。……四グルデンで、十日です。今年は、それで、しのぎます」
その人は、ぺこりと頭を下げた。
「来年は、来ます。来年こそ、必ず」
*
三日で、四人が帰った。みんな、同じ理由だった。麦が早い。賦課が要る。今年は、しのぐ。
わたしは、四人を、止められなかった。
「エルナ。追わんのか」
夕餉のあと、ヴォルフ様が、そう聞いた。
「追えません」
わたしは、湯呑みを両手で包んだまま、答えた。
「わたしが言えるのは、来年から楽になります、という話だけです。……あの方たちが困っているのは、今年です」
代書は、今年を楽にする。学びは、来年から、ずっと楽にする。
どちらが得かは、五年で見れば、比べるまでもない。四グルデンを十二の領で毎年払い続ければ、五年で二百四十グルデン。その半分で、学び舎が建つ。
けれど。
(――五年を、待てない村がある)
去年のこの領が、そうだった。あのとき、わたしが「三年で立て直します」と言っていたら、逃散はもっと増えていた。
わたしは、あのとき、まず、その年の過剰徴税を止めた。今年の飯を、先に置いた。
正しい順番を知っていたはずなのに、自分が教える側になった途端、五年先の話から始めていた。
(……取れるだけ取ると、来年は何も取れない)
あの言葉の裏側が、いま、自分に向いている。来年の話しかしない先生は、今年を越せない人を、置いていく。
*
わたしは、その晩、遅くまで、帳所の帳を睨んでいた。左に、二十九の名前。右に、まだ数えるほどの返し。
そこへ、マルタが、干した瓜の籠を抱えて入ってきた。
「財務官様。あんまり根を詰めなさんな。……ああ、ホルツの衆のことですか」
「……ええ」
「あれは、しょうがありませんよ。麦が早いんだから」
「そうね」
「――で、なんで、あの人らがここに来なきゃならんのです?」
わたしは、顔を上げた。
「え?」
マルタは、籠を置いて、腰に手を当てた。
「いや、あたしゃ、字は名前しか書けませんけどね。今日、リーゼが板の前で言ってたでしょう。去年の自分とけんかするところだ、って。あれ、あたしにも分かりました」
「ええ、あれは、良い言い方だったわ」
「じゃあ、あれ、あたしが言えます」
(――え)
「あたしが言えるってことは、あたしが村へ行って言えるってことでしょう。ホルツまで、馬車で半日ですよ。麦刈りの前の、暇な四日でいいんです。あたしと、リーゼと、あと一人。行って、四日、言ってくればいい」
「……四日で、書けるように?」
「なりゃしませんよ。八つの欄のうち、三つでしょうね」
マルタは、けろりと言った。
「でも、三つ書けたら、代書の値、下がりませんかね。全部やってもらうより、三つ埋まった紙を持っていったほうが」
(――ああ)
わたしは、口を開けたまま、この村長を見ていた。
「マルタ」
「はい」
「あなた、いま、値切りの話をしたわ」
「そりゃあ、市で三十年やってますから」
わたしは、笑ってしまった。それから、笑いながら、そろばんを引き寄せた。
四グルデンの紙。八つの欄のうち、三つを自分で埋める。残りは五つ。代書の手間が四割減る。ならば、値は――
(下がらないわ。あの方は、下げないでしょう。腰は低いけれど、商いの人だもの)
けれど、と、わたしは思った。下がらなくていい。三つ埋められた村は、来年、五つ埋める。再来年、八つ埋める。
そのとき初めて、四グルデンという値が、高いと分かる。高いと分かった人は、自分で買い物を選ぶ。
(――こちらから村へ行くのね。待つのではなく)
わたしは、帳所の帳の、新しい見開きに、線を引いた。
「マルタ。あなたに、一つ、お役をお願いしてもいい?」
「はいはい」
「――先生を、やってください」
マルタは、ぽかんとした。それから、豪快に笑った。
「あたしが先生! こりゃあ、いい。うちの死んだ亭主が聞いたら、腹を抱えますよ」
*
その晩、寝室で、ヴォルフ様が、めずらしく先に口を開いた。
「マルタを、行かせるのか」
「ええ。四日ほど」
「あれが抜けると、厨房が回らんぞ」
「そこは、ギードが泣きながら采配すると言っていました」
ヴォルフ様は、少し笑って、それから、真面目な顔になった。
「エルナ。……お前は、行かんのか」
わたしは、手にしていた帳を、膝の上に置いた。
(――行きたい、とは、思ったわ)
いちばん教えたい相手のところへ、自分で行く。それがいちばん、正しい気がする。
けれど。
「わたしが行くと、その村は、わたしを待つようになります」
「ふむ」
「マルタが行けば、その村は、来年、自分のところの誰かを立てます。……たぶん、マルタなら、こう言うから。あんたらのところにも一人はいるだろ、と」
ヴォルフ様は、しばらく考えて、うなずいた。
「――お前は、いつも、自分を勘定に入れんな」
「入れています。いちばん高くつく費えとして」
「……そういう意味ではない」
この人は、わたしの髪に、ぶっきらぼうに手を置いた。
「よその領へ帳を配りに行って、うちの帳が抜けたら、元も子もない。……その、なんだ。お前は、うちの帳だ」
言い終わってから、耳まで赤くなっている。
(――この人は、一年経っても、こういう言い方しかできないのね)
そして、わたしは一年経っても、この言い方に、弱いままだ。
*
三日後、辺境の門から、二台の荷馬車が出ていった。一台目に、マルタとリーゼと、村の女衆が二人。行き先はホルツ村。
二台目に、ヤンと、家令の一人。行き先は、東のシュタル。見送りながら、ギードが、しみじみと言った。
「……財務官様。逆でございますな」
「逆?」
「あの荷馬車は、去年まで、この領から出ていく一方でございました。人が、逃げていく一方で」
老副官は、白い髭を撫でた。
「いまは、出ていくのが、先生でございます」
わたしは、遠くなる荷馬車を、しばらく見ていた。帳所の帳の右側に、今日、二行、書き足すことになる。
学び舎は、待っているだけでは、麦の早い村に届きません。
エルナは五年先の得を語れますが、困っている人が困っているのは今年です。三年前、自分がまず今年の飯を置いたことを、教える側になった途端に忘れていた――というのが今回の急所でした。そこを引っくり返すのが、市で三十年値切ってきた村長だというのも、この作品らしいところだと思っています。
次回・第68話「署名は、売り物ではありません」。出ていった先で、白い紙が見つかります。
ブックマーク・★評価が、この帳の右側です。よろしくお願いします!




