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第64話:わたしの法の、抜けたところ

翌日から、わたしは講義の合間に、少しずつ、聞き取りをした。


叱るふうにも、調べるふうにも、しない。湯を配りながら、板を拭きながら、世間話の顔で。


「あの、書式の先生に、頼まれたことは?」


「ええ、ありますよ。去年、二度ほど」


「おいくらでした?」


「一枚、一グルデンで」


ここまでは、聞いたとおりだ。問題は、その次だった。


「そのほかに、何か、お渡しには?」


家令は、きょとんとした顔をしてから、あっさり答えた。


「ああ、通しの分ですか。あれは、三グルデンで」



三日で、九領ぶんの答えが揃った。一枚、一グルデン。


「通してさしあげる」分が、三グルデン。


驚いたのは額ではなく、答え方だった。九人とも、こそこそしなかった。悪いことをしている顔を、誰一人していない。


「早いんですよ、あれが」と、肝煎りの一人は言った。「順を踏むと、検分使殿の巡回を待って、日を合わせて、ひと月。三グルデンで、それが十日になります。うちの村じゃ、種を蒔く前に賦課が決まらんと、困りますで」


(……そう。誰も、悪いことをしていると思っていないのね)


わたしは、その晩、執務室で、新徴税法の条文の写しを、初めから終わりまで、声に出して読んだ。


三度、読んだ。


そして、二つ目の、いちばん短い条のところで、指が止まった。


――算定書には、立ち会いたる検分使の署名を要す。


それだけ。


日付のことが、書いていない。


「……ああ」


わたしは、椅子の背に、体を預けた。署名が「いつ」なされたかを、条文は、問うていない。


検分使が村に立ち会って、算定を検めて、その場で署名する。わたしは、それを、当たり前の順序だと思って書いた。書かなくても、そうなると思っていた。


けれど、条文が問うていないのなら。署名だけを先にもらった白い紙を、あとから埋めても、法は、それを止めない。


(三グルデンは、順を飛ばす値段じゃない。――署名の、値段だわ)



翌朝、ギードとヴォルフ様に、条文の写しを見せた。指で、その一行をなぞる。


「ここです。ここが、抜けています」


ギードが唸った。


「たった一行、書き忘れただけで、こうなりますか」


「書き忘れたのではありません。……書かなくても大丈夫だと、思ったのです」


自分で言って、胸が悪くなった。


わたしは、あの条文を、辺境の大机で、十四人がかりで作った。マルタが読み上げの欄を入れさせ、ニコが式から飾りを削ぎ落とし、ヴォルフ様が武装の取り立てを禁じさせ、ハーゲン殿が定期検分を書き足した。


あの日、この部屋にいた誰も、「署名を売る人」を、思い浮かべなかった。


わたしたちが知っていた敵は、取りすぎる者だったからだ。順を飛ばしたい者を、一人も、知らなかった。


「エルナ」


ヴォルフ様が、短く言った。


「その男を、斬るか」


わたしは、思わず顔を上げた。この人がこういう言い方をするときは、たいてい、本気ではない。本気で怒っているときは、もっと静かになる。


つまりこれは、この人なりの、慰めだった。


「――斬れません」


わたしは、笑ってしまってから、まじめな顔に戻した。


「あの方は、法を、一つも破っていませんから」


「破っていないのに、悪いのか」


「悪いのは、あの方ではありません」


わたしは、条文の写しを、机に置いた。


「悪いのは、この一行です。……わたしが書いた、この一行が」


ギードが、白い髭を撫でた。


「では、書き足せばよろしいのでは。署名は、算定書の日付と同じ日でなければならぬ、と」


「ええ。それは、そのとおりです」


わたしは、うなずいた。


「ですが、それだけでは、足りません」


「足りませぬか」


「署名の日を縛れば、順を飛ばす道は塞げます。……ですが、書けない人は、明日も書けないままです」


書けない人がいる限り、代わりに書く人が要る。代わりに書く人が要る限り、そこには値がつく。値がつく限り、その値を、いちばん貧しい村が、いちばん重く払う。


(穴を塞いでも、水が来る先を変えるだけだわ)



昼過ぎ、ゲオルクの荷馬車が、門を出ていくのが見えた。


わたしは、二階の窓から、それを見送った。南の道だ。ブラウ村へ抜けて、そのまま十二の領を、時計回りに回る。


(……よく、できた道順ね)


領を回る順番が、賦課の決まる時期の順番と、きれいに合っている。麦の早い領から、遅い領へ。二十二年、請負の帳を書いてきた人だ。どの領で、いつ紙が要るかを、体で覚えている。


「お姉ちゃん、なに見てるの」


いつのまにか、ニコが横に立っていた。


「馬車を」


「あのおじさん、いい人?」


わたしは、少し考えた。


「――いい人よ。たぶん、わたしより、字がきれい」


「じゃあ、なんで、お姉ちゃん、怒ってる顔してるの」


(……怒って、いたのね。わたし)


わたしは、窓から離れて、この子の頭に手を置いた。


「怒ってるんじゃないの。……間違えたところを、見つけたから」


「誰が間違えたの」


「わたし」


ニコは、ぽかんとした顔をして、それから、うれしそうに笑った。


「へえ。お姉ちゃんも、間違えるんだ」



その夜は、眠れなかった。執務室の机で、わたしは、二枚の紙を並べていた。


一枚は、ゲオルクが置いていった算定書。八つの欄が、みごとに埋まっている。


もう一枚は、ヨストさんが今日書いた、初めての算定書。数の欄が三つだけ、玉で数えた印で埋まっていて、あとは白い。


美しいのは、明らかに前者だ。けれど、後者を書いた人は、自分が何を書いたか、知っている。


(……そういうこと)


わたしは、白い紙を一枚おろして、真ん中に線を引いた。左に費え、右に実り。


左側に書いた。


――代書を、罰する。


そのすぐ下に、線を引いて、消した。


罰したら、どうなるか。書けない領が、書けないまま残る。賦課が決まらず、種蒔きの前に何も決まらず、困るのは、あの肝煎りの村だ。ゲオルクを潰しても、翌年、別の誰かが同じ商売を始める。代書が必要である限り、代書屋は湧く。


去年の秋、検分使のハーゲン殿が、天秤を挟んで、わたしに言った言葉を思い出す。


不当だが、適法。


――悪人を倒しても、仕組みが残れば、次の悪人が座るだけ。


あのとき、わたしは中央を見上げて、そう思った。いま、その言葉が、そっくりそのまま、自分の法に返ってきている。


(では、仕組みのほうを、直すのね)


わたしは、左側の消した行の下に、新しい一行を書いた。


――代書を、要らなくする。


書けない人がいるから、代書が売れる。書ける人が増えれば、代書は、売り物にならない。


そこまで書いて、わたしは、右側の欄に、目を移した。


まだ、白い。


この「書ける人を増やす」という費えを、どこから出して、誰が回して、いつ返ってくるのか。それを書けなければ、これは、ただの願いごとだ。


夜明け前に、わたしは、その紙の上のほうに、題を書いた。


帳所ちょうしょ』。


――帳を、習うところ。


自分で書いた二文字を、しばらく、見ていた。


学校、と昨日は言った。けれど、あの言葉は、この世界の子らには、まだ遠い。名前は、短いほうがいい。呼びやすいほうがいい。ニコが半年かからずに覚えられるほうが、いい。


(さて。……元手は、どこから出しましょうか)


窓の外が、白み始めていた。

悪いのは代書人ではなく、条文の一行だった、という回です。


エルナの法は、辺境の全員で作りました。だからこそ、そこにいた誰も知らない手口には、まったく無防備でした。「取りすぎる者」しか知らない人たちが、「順を飛ばしたい者」を想像できなかった――ここは、勝ったあとの物語でどうしても書きたかったところです。第三十四話でハーゲンが言った言葉が、そのままエルナに返ってきます。


次回・第65話「学び舎の、いちばん最初の帳」。元手のない元手の、集め方。


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