第64話:わたしの法の、抜けたところ
翌日から、わたしは講義の合間に、少しずつ、聞き取りをした。
叱るふうにも、調べるふうにも、しない。湯を配りながら、板を拭きながら、世間話の顔で。
「あの、書式の先生に、頼まれたことは?」
「ええ、ありますよ。去年、二度ほど」
「おいくらでした?」
「一枚、一グルデンで」
ここまでは、聞いたとおりだ。問題は、その次だった。
「そのほかに、何か、お渡しには?」
家令は、きょとんとした顔をしてから、あっさり答えた。
「ああ、通しの分ですか。あれは、三グルデンで」
*
三日で、九領ぶんの答えが揃った。一枚、一グルデン。
「通してさしあげる」分が、三グルデン。
驚いたのは額ではなく、答え方だった。九人とも、こそこそしなかった。悪いことをしている顔を、誰一人していない。
「早いんですよ、あれが」と、肝煎りの一人は言った。「順を踏むと、検分使殿の巡回を待って、日を合わせて、ひと月。三グルデンで、それが十日になります。うちの村じゃ、種を蒔く前に賦課が決まらんと、困りますで」
(……そう。誰も、悪いことをしていると思っていないのね)
わたしは、その晩、執務室で、新徴税法の条文の写しを、初めから終わりまで、声に出して読んだ。
三度、読んだ。
そして、二つ目の、いちばん短い条のところで、指が止まった。
――算定書には、立ち会いたる検分使の署名を要す。
それだけ。
日付のことが、書いていない。
「……ああ」
わたしは、椅子の背に、体を預けた。署名が「いつ」なされたかを、条文は、問うていない。
検分使が村に立ち会って、算定を検めて、その場で署名する。わたしは、それを、当たり前の順序だと思って書いた。書かなくても、そうなると思っていた。
けれど、条文が問うていないのなら。署名だけを先にもらった白い紙を、あとから埋めても、法は、それを止めない。
(三グルデンは、順を飛ばす値段じゃない。――署名の、値段だわ)
*
翌朝、ギードとヴォルフ様に、条文の写しを見せた。指で、その一行をなぞる。
「ここです。ここが、抜けています」
ギードが唸った。
「たった一行、書き忘れただけで、こうなりますか」
「書き忘れたのではありません。……書かなくても大丈夫だと、思ったのです」
自分で言って、胸が悪くなった。
わたしは、あの条文を、辺境の大机で、十四人がかりで作った。マルタが読み上げの欄を入れさせ、ニコが式から飾りを削ぎ落とし、ヴォルフ様が武装の取り立てを禁じさせ、ハーゲン殿が定期検分を書き足した。
あの日、この部屋にいた誰も、「署名を売る人」を、思い浮かべなかった。
わたしたちが知っていた敵は、取りすぎる者だったからだ。順を飛ばしたい者を、一人も、知らなかった。
「エルナ」
ヴォルフ様が、短く言った。
「その男を、斬るか」
わたしは、思わず顔を上げた。この人がこういう言い方をするときは、たいてい、本気ではない。本気で怒っているときは、もっと静かになる。
つまりこれは、この人なりの、慰めだった。
「――斬れません」
わたしは、笑ってしまってから、まじめな顔に戻した。
「あの方は、法を、一つも破っていませんから」
「破っていないのに、悪いのか」
「悪いのは、あの方ではありません」
わたしは、条文の写しを、机に置いた。
「悪いのは、この一行です。……わたしが書いた、この一行が」
ギードが、白い髭を撫でた。
「では、書き足せばよろしいのでは。署名は、算定書の日付と同じ日でなければならぬ、と」
「ええ。それは、そのとおりです」
わたしは、うなずいた。
「ですが、それだけでは、足りません」
「足りませぬか」
「署名の日を縛れば、順を飛ばす道は塞げます。……ですが、書けない人は、明日も書けないままです」
書けない人がいる限り、代わりに書く人が要る。代わりに書く人が要る限り、そこには値がつく。値がつく限り、その値を、いちばん貧しい村が、いちばん重く払う。
(穴を塞いでも、水が来る先を変えるだけだわ)
*
昼過ぎ、ゲオルクの荷馬車が、門を出ていくのが見えた。
わたしは、二階の窓から、それを見送った。南の道だ。ブラウ村へ抜けて、そのまま十二の領を、時計回りに回る。
(……よく、できた道順ね)
領を回る順番が、賦課の決まる時期の順番と、きれいに合っている。麦の早い領から、遅い領へ。二十二年、請負の帳を書いてきた人だ。どの領で、いつ紙が要るかを、体で覚えている。
「お姉ちゃん、なに見てるの」
いつのまにか、ニコが横に立っていた。
「馬車を」
「あのおじさん、いい人?」
わたしは、少し考えた。
「――いい人よ。たぶん、わたしより、字がきれい」
「じゃあ、なんで、お姉ちゃん、怒ってる顔してるの」
(……怒って、いたのね。わたし)
わたしは、窓から離れて、この子の頭に手を置いた。
「怒ってるんじゃないの。……間違えたところを、見つけたから」
「誰が間違えたの」
「わたし」
ニコは、ぽかんとした顔をして、それから、うれしそうに笑った。
「へえ。お姉ちゃんも、間違えるんだ」
*
その夜は、眠れなかった。執務室の机で、わたしは、二枚の紙を並べていた。
一枚は、ゲオルクが置いていった算定書。八つの欄が、みごとに埋まっている。
もう一枚は、ヨストさんが今日書いた、初めての算定書。数の欄が三つだけ、玉で数えた印で埋まっていて、あとは白い。
美しいのは、明らかに前者だ。けれど、後者を書いた人は、自分が何を書いたか、知っている。
(……そういうこと)
わたしは、白い紙を一枚おろして、真ん中に線を引いた。左に費え、右に実り。
左側に書いた。
――代書を、罰する。
そのすぐ下に、線を引いて、消した。
罰したら、どうなるか。書けない領が、書けないまま残る。賦課が決まらず、種蒔きの前に何も決まらず、困るのは、あの肝煎りの村だ。ゲオルクを潰しても、翌年、別の誰かが同じ商売を始める。代書が必要である限り、代書屋は湧く。
去年の秋、検分使のハーゲン殿が、天秤を挟んで、わたしに言った言葉を思い出す。
不当だが、適法。
――悪人を倒しても、仕組みが残れば、次の悪人が座るだけ。
あのとき、わたしは中央を見上げて、そう思った。いま、その言葉が、そっくりそのまま、自分の法に返ってきている。
(では、仕組みのほうを、直すのね)
わたしは、左側の消した行の下に、新しい一行を書いた。
――代書を、要らなくする。
書けない人がいるから、代書が売れる。書ける人が増えれば、代書は、売り物にならない。
そこまで書いて、わたしは、右側の欄に、目を移した。
まだ、白い。
この「書ける人を増やす」という費えを、どこから出して、誰が回して、いつ返ってくるのか。それを書けなければ、これは、ただの願いごとだ。
夜明け前に、わたしは、その紙の上のほうに、題を書いた。
『帳所』。
――帳を、習うところ。
自分で書いた二文字を、しばらく、見ていた。
学校、と昨日は言った。けれど、あの言葉は、この世界の子らには、まだ遠い。名前は、短いほうがいい。呼びやすいほうがいい。ニコが半年かからずに覚えられるほうが、いい。
(さて。……元手は、どこから出しましょうか)
窓の外が、白み始めていた。
悪いのは代書人ではなく、条文の一行だった、という回です。
エルナの法は、辺境の全員で作りました。だからこそ、そこにいた誰も知らない手口には、まったく無防備でした。「取りすぎる者」しか知らない人たちが、「順を飛ばしたい者」を想像できなかった――ここは、勝ったあとの物語でどうしても書きたかったところです。第三十四話でハーゲンが言った言葉が、そのままエルナに返ってきます。
次回・第65話「学び舎の、いちばん最初の帳」。元手のない元手の、集め方。
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