第65話:学び舎の、いちばん最初の帳
朝いちばんに、わたしは三つの数字を並べた。
一つ目。館の東の古い納屋を建て直して、机と腰掛けと板を入れる。百二十グルデン。
二つ目。紙と炭と、そろばん五十丁。四十グルデン。三つ目。人を三人。教える者と、賄いと、宿の世話。年に二十グルデン。
締めて、百八十グルデン。
「この領の、今年の余りが、三百二十グルデンです」
わたしは、そろばんの玉を、まとめて上げた。
「余りの、半分と少し。……出せます」
ギードが、目を丸くした。
「半分、でございますか」
「ええ」
「財務官様。半分でございますぞ。治水も、街道も、備蓄も、まだ途中でございます」
「分かっています」
(分かっているから、いま、いちばん怖いのよ)
去年、この領の余りは、百二十グルデンだった。それを三つに割って、治水と街道と備蓄に配ったとき、村の誰かが泣いた。
いまは、その三倍近くある。豊かになったからではない。取られなくなったからだ。
その三倍近くを、明日の橋ではなく、五年先の人に使う。
(……返ってくるかどうかは、誰にも分からない)
*
昼前、ヴォルフ様が、納屋を見に来た。床は腐りかけ、屋根は半分落ちている。三十年、麦の袋を積んできた場所だ。
「建て直しは、うちの大工でやる。冬前に上げれば、百二十はかからん」
「ありがとうございます」
「金は、領庫から出すのか」
「――そのつもりで、算段しました」
わたしは、そう答えた。数字の上では、それがいちばん早い。
けれどヴォルフ様は、落ちかけた屋根を見上げたまま、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「エルナ。領の金でやると、これは、領のものになるぞ」
「……ええ」
「領のものになったら、よその領の子は、来られん」
わたしは、彼の横顔を見た。この人は、算術が苦手だ。式は読めない。八つの欄も、いまだに三つ目で止まる。
けれど、この人はときどき、わたしが数字で見ている盤を、まったく別のところから見て、いちばん大事な一手を指す。
「……ヴォルフ様」
「なんだ」
「わたしは、いま、この領の財務官として、算段をしていました」
わたしは、腐った床を、爪先で軽く叩いた。
「よその領の子が来られない学び舎は、代書屋を、なくせません」
*
その日の午後は、算段のやり直しに費やした。
領庫から全部を出すと、この学び舎は辺境のものになる。よその領の子を入れるたび、領庫の金でよそを養う形になり、いつか必ず、「なぜうちが」という声が出る。
出るのが当たり前だ。人は、そういうふうにできている。
かといって、授業料を取れば――ヨストさんの村は、二度と来られない。
わたしは、両建ての線を引いた紙を前に、長いこと、右側を睨んでいた。左側は、書ける。百八十グルデン。
問題は、右側だ。この費えは、何になって、いつ、誰の手で戻ってくるのか。
(……お金で戻らないのなら)
夕方、板の前に立って、講義中の広間を見た。ヨストさんが、玉を鳴らしている。今朝からもう、二桁の足しができる。
隣の村の肝煎りが、それを覗き込んで、「わしにも一度」とせがんでいる。
(――ああ。もう、戻り始めているのだわ)
わたしは、その晩、新しい帳を一冊おろした。表紙に、『帳所』と書いた。
そして、いちばん最初の見開きに、真ん中に線を引いて、左と右の欄を作った。左に、こう書いた。
――借り。
右に、こう書いた。
――返し。
*
翌朝、広間に、十四人と、村の子らを集めた。
「今日は、算定書の話をしません」
わたしは、真新しい帳を、机の上に置いた。
「この領に、帳を習うところを作ります。名前は、帳所といいます。冬前に、東の納屋が建ちます」
ざわめきが起きた。
「授業料は、いただきません」
ざわめきが、大きくなった。家令の一人が、慌てて手を挙げた。
「し、しかし財務官様。ただほど高いものはないと、昨日ご自身が」
「ええ。ですから、ただにはしません」
わたしは、帳を開いて、左の欄を、指で示した。
「習った方には、借りが立ちます。ここに、お名前と、習った月を書きます」
それから、右の欄を示した。
「返し方は、一つだけです。――村へ帰って、隣の家の人に、教えてください」
広間が、しん、となった。
「一人が三人に教えてくだされば、返しは済みです。三人が、また三人ずつ教えたなら、それは利息と思って、こちらでいただきます」
「……利息、でございますか」
「ええ。この帳の利息は、銭では受け取りません」
わたしは、筆を持ったまま、みんなの顔を見た。
「元手は、金です。返しは、人でいただきます」
長い沈黙のあと。
いちばん後ろで、ヨストさんが、ゆっくり手を挙げた。
「……財務官様。わしは、三人には、教えられんかもしれません」
「では、一人で結構です」
「一人で、よろしいので」
「一人でも、この帳の右側は、埋まります」
その人は、しばらく、自分の大きな手を見ていた。それから、立ち上がって、机まで歩いてきた。
「わしの名は、書けません。……ですが、印なら、押せます」
わたしは、朱肉を出した。親指の腹が、帳の左の欄に、ゆっくりと押しつけられる。赤い、大きな印が、一つ。
「――ありがとうございます」
わたしは、その隣に、その人の名前を書いた。ヨスト。ブラウ村。そして、その下に、二人目の名前を書いた。
ニコ。グラウフェルト。
「え、おいら!?」
「あなたは、もう三人に教えているでしょう。……借りより先に、返しが立っているの」
ニコが、真っ赤になって、そろばんを抱えた。
その日、帳所の帳の左側には、十六の名前が並んだ。右側は、まだ、真っ白だった。
*
納屋の建て直しは、その三日後に始まった。見に行って、驚いた。
領の大工は、三人しか出していない。なのに、屋根の上には、十人以上が乗っている。
「マルタ。あれは?」
「村の衆ですよ」
前掛けで顔の汗を拭きながら、マルタが言った。彼女自身、袖をまくって、瓦を運んでいる。
「あたしが声をかけました。冬前に上げるってんなら、大工三人じゃ間に合いませんからね。畑の手が空く時分だし、みんな、暇だ暇だと言っておりましたから」
「……手間賃は」
「要りませんよ」
マルタは、当たり前のことを言う顔をした。
「うちの子らが、あそこで習うんです。自分の子が入る屋根を、他人に葺かせて、金まで払うってのは、あたしゃ、勘定が合わないと思いますがね」
(――勘定が、合わない)
わたしは、しばらく、その言い方を、頭の中で転がしていた。
わたしが百二十グルデンと見積もった屋根が、七十グルデンで上がりそうだ。減った五十グルデンは、村の手間だ。手間は、帳の左側には載らない。
けれど、確かに、この建物の一部になる。
(……この帳は、わたしの帳よりも、大きな帳なのね)
わたしは、帳所の帳を開いて、右側の欄の、いちばん上に、初めて一行を書き込んだ。
――ブラウ村ほか、屋根。手間十日。
銭の額は、書かなかった。書けなかった、と言ったほうが、正しい。
学び舎を、領の金だけでは建てさせない――と決めたのは、算術のできないほうの人でした。
エルナは数字で最短の道を出しますが、その道を通ると、よその領の子が入れない建物になる。ヴォルフはそれを、式ではなく、屋根を見上げながら言い当てます。この二人は、こういうところで噛み合う夫婦です。授業料の代わりに「隣の家に教えること」を返しにする、という一手も、彼の一言から生まれました。
次回・第66話「教える者を、育てる」。十六の名前のうち、一人が、迷います。




