第63話:無料の親切が、いちばん高くつきます
三日目には、講義の形が、すっかり変わっていた。
板の前に立つのは、日替わりだ。午前はニコと弟子の子ら、午後がわたし。子らが「箱」と「玉っころ」で土台を作り、そのあとにわたしが式の話をすると、不思議なことに、通じる。
わたしの説明の中身は、初日と、一文字も変えていないのに。
(……順番の問題だったのね)
四日目の午後、算定の式の欄まで進んだところで、家令の一人が、ふと妙なことを言った。
「ここまで来て申すのも何ですが。……我らの領では、この欄は、先生に頼んでおりましたので」
わたしは、炭を持つ手を止めた。
「先生?」
「はい。書式の、先生でございます。あの、村を回っておられる」
隣の席の肝煎りも、うなずいた。
「うちにも来ますな。あの、腰の低い、痩せた御仁。算定書を一枚、書いてくれますで。一グルデンで」
*
その晩、ギードとヴォルフ様を執務室に呼んで、聞いた話を並べた。十四人のうち、九人が、その「先生」を知っていた。
村を回り、算定書を代わりに書く。一枚、一グルデン。
「一グルデン」と、ヴォルフ様が繰り返した。「安いのか、高いのか、俺には分からん」
「一枚なら、安いです」
わたしは、そろばんに手を伸ばした。
「麦一俵が銀貨八枚ですから、一グルデンは、まあ、麦にすれば数俵ぶん。書式ひとつで三日唸る手間を思えば、村の肝煎りには、ありがたい額でしょう」
「なら、いい話ではないか」
「――ええ。一枚なら」
ぱちん、と玉を上げた。
「あの方が回っているのは、九つの領です。おそらく、もう少し多い。近隣は十二領。ひとつの領で、村と、村と、代官所と、領の総まとめ。年に、二十枚から三十枚は要ります」
ぱちん。
「十二領で、年におよそ三百枚。三百グルデン」
ギードが、口を開けた。
「三百……。辺境の年の賦課が、四百でございますぞ」
「ええ。書式を書くという、それだけの商いで、辺境ひとつぶんの賦課に近い額が動いています」
(そして、それは全部、合法)
わたしは、そろばんの玉を、すべて上げて、戻した。
新法のどこにも、「算定書を本人が書かねばならない」とは、書いていない。
書いてあるのは、欄が埋まっていること。式が示されていること。検分使の署名があること。それだけだ。
「エルナ」
ヴォルフ様が、腕を組んだ。
「その男は、悪いのか」
わたしは、少し考えて、正直に答えた。
「……分かりません。書けない人の代わりに書いて、手間の分の銭を受け取る。それだけなら、まっとうな商いです」
「だが、お前の顔は、まっとうな商いを聞いた顔ではないな」
(見抜かれてしまうのね、この人には)
「一つ、気になることがあります」
わたしは、家令の言葉を、そのまま繰り返した。
「その方は、こうも言うそうです。――『通してさしあげます』と」
蝋燭の炎が、揺れた。
「……検分使の、署名の欄か」
「ええ」
新法の算定書は、検分使の署名がなければ効かない。署名を貰うには、巡回を待ち、日を合わせ、算定の根拠を検めてもらう。順を踏めば、ひと月はかかる。
「エルナ。それは、悪いことか」
「――署名を売っているのなら、法を、殺しています」
わたしは、そろばんの玉を、ひとつだけ、上げたままにした。
「あの欄は、たった一行です。ですが、あの一行のために、わたしは御前で二日、立っていました。あそこが売り物になるのなら、新徴税法は、去年のうちに死んでいます」
「……だが、まだ、売ったと決まったわけではないだろう」
ギードの言うとおりだった。わたしが持っているのは、家令の一言だけだ。数字も、紙も、名前も、まだ一つもない。
(――決めつけては、いけないわ)
わたしは、玉を戻した。
「明日、その方に、お会いしてみます」
*
その男は、翌朝、自分から門に来た。
痩せて、背が高く、上着は古いがよく手入れされている。四十がらみ。腰の低さは、聞いていたとおりだった。
「ご無礼をお許しくださいませ。わたくし、ゲオルク・キーファーと申します」
彼は、丁寧すぎるほど丁寧に、頭を下げた。
「近隣の領を回らせていただいております、しがない書き手でございます。辺境伯領で、帳の手ほどきをなさっていると伺いまして、ご挨拶を、と」
「エルナ・フォン・グラウフェルトです。……よく、いらしてくださいました」
わたしは、彼を広間へ通した。
ゲオルクは、講義中の広間を、しばらく黙って眺めていた。ニコが板に麦の絵を描き、ヨストさんが玉を鳴らし、家令たちが筆を走らせている。
その横顔は――どう見ても、感心している顔だった。
「……立派なものでございますなあ」
「まだ、四日目です」
「四日で、玉を鳴らさせておられる。わたくしなど、十年かかって、それができませんでした」
彼は、ふう、と息を吐いた。
「財務官様。わたくしは、以前、請負のお役に就いておりました」
わたしは、湯呑みを置く手を、止めた。請負徴税。去年の御前検分で、全廃した仕組みだ。
「差配の下で、帳を書く役でございました。二十二年、書いておりました。……それが、去年、なくなりまして」
「――ええ」
「いえ、恨み言ではございません。あれは、悪い仕組みでございましたから」
ゲオルクは、本当に、恨み言らしい色を一つも見せずに、笑った。
「ただ、書くことしか知らぬ男が、四十を過ぎて、村へ帰されまして。しばらく、日雇いをしておりました。そこへ、新しい法が参りまして――」
彼は、ふところから、算定書を一枚出した。八つの欄が、みごとな筆で、一つ残らず埋まっている。
「あなた様の法のおかげで、わたくしのような者にも、飯の種が、戻ってまいりました」
(……ああ)
わたしは、その紙を受け取った。式は正確で、註記は簡潔だ。けれど、この紙を、この領の誰も、読めない。
読めないまま、一グルデン払って、受け取っている。
「キーファーさん」
「はい」
「一つ、伺っても?」
わたしは、その紙を、机に置いた。
「あなたが書いた算定書を、村の方が読めなかったとして。……あなたは、それを、教えて差し上げますか」
ゲオルクは、少しだけ、目を細めた。
それから、広間のほうを見た。ヨストさんの太い指が、玉の上を、ゆっくり這っている。ニコが横で、「そう、そこ、そこ!」と、飛び跳ねている。
「――難しいことは、わたくしどもが」
まことに丁寧な、まことに柔らかい声だった。
「そのためにおりますので。あの方々に、ご苦労をおかけするには、及びません」
わたしは、しばらく、答えられなかった。
この人は、嘘をついていない。悪意も、たぶん、ない。二十二年、書くことしか知らずに生きてきた男が、書くことで人の役に立って、その分の銭を受け取っている。ただ、それだけだ。
けれど、その「それだけ」が積み上がった先に、何ができるかを、わたしは知っている。三十年前、辺境の広場に立った高札。
額だけが書いてあって、式は書いていない紙。読めない者は、ただ、払うしかない紙。
(――同じ形をしているわ)
紙を書いたのが領主でも、中央でも、親切な代書人でも、受け取る側から見えるものが同じなら、それは同じ紙だ。
「キーファーさん」
「はい」
「あなたのお仕事は、まっとうです。手間には、値がついて当たり前ですから」
「恐れ入ります」
「ですから、わたしは、あなたを止めません」
ゲオルクは、ゆっくりと顔を上げた。腰は低いままだったけれど、目だけが、初めて、こちらを測っていた。
「――止めません、と申されますと」
「その仕事が、要らなくなるまで、待っていただきます」
わたしは、その美しい算定書を、彼のほうへ、そっと押し返した。
「わたしは、あの人たちが、これを自分で書けるようにします。……そうしたら、あなたのお仕事は、なくなります」
短い沈黙のあと。
ゲオルク・キーファーは、深々と、頭を下げた。
「――ご立派でございます。ええ、まことに」
その声には、皮肉も、怒りも、なかった。ただ、少しだけ、疲れた人の音がした。
第63話、お読みいただきありがとうございます!
第三部の最初の相手が出てきました。バルトロトのような粗野でも、ローデリヒのような慇懃でも、オイゲンのような無感情でもなく、この人はただ「親切」です。しかも法を一つも破っていません。エルナが作った盾の、いちばん柔らかいところに、いちばん腰の低い形で手が伸びている――という書き方をしたかった回でした。
次回・第64話「わたしの法の、抜けたところ」。一グルデンの隣に、もうひとつ値札があります。
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