第6話:辺境伯は、剣は強いが算術に弱い
その夜、わたしが帳簿の部屋に戻ると、先客がいた。
辺境伯ヴォルフが、灯りの下で、一冊の台帳を睨んでいた。眉間に深い皺を寄せ、まるで魔物と対峙するような顔で。
そして――帳面を、逆さに持っていた。
「……辺境伯。それ、上下が逆です」
ヴォルフ様の肩が、びくりと跳ねた。慌てて帳面をひっくり返し、それでもまだ落ち着かない様子で、ばつが悪そうに言う。
「……すまん。どちらが上でも、俺には同じに見える。数字というのは、どうにも、頭に入ってこなくてな」
わたしは、彼の隣に腰を下ろした。逆さでなくなった台帳を、指でなぞる。
「ここが、徴収した額。ここが、領庫に残った額。この差が――問題の差です。難しくありません。多いか、少ないか。それだけです」
「多いか、少ないか」ヴォルフ様は、噛みしめるように繰り返した。「……お前が言うと、簡単に聞こえる。だが、俺には、ずっと、それができなかった」
灯りが、彼の横顔を照らす。剣だこのできた、傷だらけの手。その手が、握りしめられていた。
「ライゼンタール殿。一つ、聞いてくれるか。――俺が、なぜ帳面から逃げてきたか」
低い声だった。わたしは、黙ってうなずいた。
「俺の父は……先代の辺境伯は、これでも、領を立て直そうとした人だった」
ヴォルフ様は、ぽつり、ぽつりと、語りはじめた。
「父の代も、この領は赤字だった。だが父は、おかしいと気づいていたんだ。働いても働いても、領が痩せていく。中央に納める賦課が――上納金が、年々重くなっていく。隣の領の倍も、三倍も」
賦課。――わたしは、その言葉に、すっと背筋が冷えた。
(賦課。中央へ納める上納金。それが領の取り分より重ければ、どれだけ働いても、領は痩せていくだけ)
「父は、抗議した。何度も、中央に書簡を送った。『この賦課は重すぎる、辺境が立ち行かない』と。だが――」
ヴォルフ様の声が、わずかに掠れた。
「中央は、相手にしなかった。それどころか、『辺境伯は数字も読めぬのか、定められた賦課に文句をつけるとは』と、嘲笑が返ってきた。父は、帳面を片手に、何度も王都へ通った。だが、向こうには、もっと帳面に長けた者が、何人もいた。父は、数字で言いくるめられ、追い返され続けた」
灯りの芯が、じじ、と鳴った。
「父は、心労で倒れた。床に伏せたまま、最後まで言っていたよ。『数字では、勝てなかった』と。――俺は、その横で、誓ったんだ。もう、帳面なんかに頼らない。あんなもので戦っても、辺境は負ける。だったら俺は、この剣で、魔物からだけでも領民を守ろう、と」
彼は、自分の剣だこを見つめた。
「だから、俺は算術から逃げた。逃げて、武に逃げ込んだ。……情けない話だ。領主のくせに、領の帳簿一つ、読めん」
部屋に、沈黙が落ちた。
わたしは、母の形見のそろばんを、卓の上に置いた。ことり、と小さな音がした。
「辺境伯。お父上は、間違っていません」
ヴォルフ様が、顔を上げた。
「賦課が重すぎる――その見立ては、正しかった。お父上は、ちゃんと、おかしいと気づいていた。ただ」わたしは、台帳を開いた。「気づいたことを、数字で証明する術を、持っていなかっただけです。怒りを、相手に伝わる形にできなかった。だから、言いくるめられた」
「……術」
「ええ。中央には、帳面に長けた者がいた。だから、こちらも帳面で返せばよかった。感情ではなく、一行ずつの数字で。『この賦課は重い』ではなく、『この賦課は、領の収穫の何割にあたり、残された領民で割れば一人あたりこれだけになる。だから払えない』と。――数字は、身分を問いません。令嬢が言おうと、辺境伯が言おうと、合っている数字は、合っている」
わたしは、まっすぐに彼を見た。
「お父上は、剣で戦う人ではなかった。きっと、数字で戦おうとして、武器の使い方を知らなかっただけ。――その武器なら、わたしが持っています」
ヴォルフ様の、青灰色の目が、揺れた。
「お前は……数字で、中央とも、戦えると言うのか」
「戦えます」
迷いなく、わたしは答えた。
「過剰徴税も、中抜きも、過大な賦課も。すべて、帳簿に痕が残っています。剣で斬れない相手でも、数字でなら、追い詰められる。――辺境伯。あなたが剣で領民の体を守るなら、わたしは、数字で領民の暮らしを守ります。剣と、そろばんで。二人なら、お父上が一人で挑んだ戦に、勝てるかもしれません」
長い、長い沈黙があった。
やがてヴォルフ様は、ゆっくりと、卓の上のそろばんに、節くれだった指を伸ばした。玉を一つ、おそるおそる、弾く。ぱちん、と澄んだ音が鳴った。
彼は、まるで初めて見るもののように、その玉を見つめた。
「……お前がいれば」
掠れた声で、彼は言った。
「この土地は――飢えずに、済むのか」
それは、問いの形をした、祈りだった。長いあいだ、誰にも言えずに飲み込んできた願い。
わたしは、その問いに、淑女の礼で応えなかった。代わりに、彼の隣で、もう一つ玉を弾いてみせた。
「ええ。済みます。――二人で、計算しましょう」
ヴォルフ様が、ふっと、口元を緩めた。無骨な男の、不器用な、けれど確かな笑みだった。わたしは、なぜだか、その顔から目をそらしてしまった。
その夜の食卓には、いつもの硬いパンと豆のスープに、干し肉が一切れ、添えられていた。ギードが「祝いだ」と、ぶっきらぼうに言って。
質素な食卓に、ほんの少しの肉。その温かさを、わたしは長く、覚えていることになる。
お読みいただきありがとうございます! 剣は強いが算術にめっぽう弱い辺境伯ヴォルフ。彼が帳面から逃げてきた、その理由――先代の無念が、ついに明かされました。
「数字でも、戦えます」。エルナのこの一言から、二人の協働が始まります。剣と、そろばん。武と、算。捨てられた令嬢と、諦めていた領主の、不器用な共闘の幕開けです。恋の予感は、まだほんの小さな芽。ここから、ゆっくり育てていきます。
次回からは、いよいよ代官バルトロトとの本格的な攻防へ。「帳簿は、二冊ありました」――。面白いと思っていただけたら、ブックマーク・★評価で応援していただけると、本当に嬉しいです。明日も更新します!




