第57話:国の帳簿を、開いてください
王都までの、八日。
わたしの膝の上には、道中ずっと、三冊の帳があった。
先代様の古い帳。実家の十年の帳。そして、辺境の帳。三冊まとめても、片手で抱えられる。三十年ぶんの理不尽の証というものは、思いのほか、軽い。
「落とすなよ」
向かいの席で、ヴォルフ様が言った。
「ええ。……国一冊ぶんの重さですから、大切に」
窓の外を、春の王国が、流れていった。どの領の畑にも、種は蒔かれている。その実りの、どれだけが、蒔いた人の食卓に残るのか。それを決める帳が、王都で、わたしたちを待っている。
王宮の、御前の間の、扉の前で。
ヴォルフ様は、一度だけ、足を止めた。わたしの抱えた三冊の、いちばん上――父君の古い帳に、そっと、手を置いた。
「……行こう。親父も、連れて行く」
「ええ。三十年ぶりの、登城ですものね」
扉が、開く。
高い天井。長い机。磨き上げられた床に、朝の光が、長く伸びている。玉座にはアーダルベルト王。左右には、財務院の官と、諸侯の列。傍聴の列には、王都まで同道してくださった、ハーゲン殿の変わらぬ渋面があった。それが少しだけ、心強い。
わたしは、歩きながら、胸元に、そっと手を当てた。懐には母の形見のそろばん。夜会で捨てられた娘が、王の御前で国の帳を検めに来るなんて、あの頃の誰が、算定できただろう。
(大丈夫。数字は、どこで弾いても、数字だわ)
そして、机を挟んだ向こうに、王国財務卿、ヴァルデマール。
王都での、二幕目だった。冬の御前検分で、請負徴税の利権は崩れた。今日は、その根――国の帳簿そのものを、検める番。机の上には、わたしたちの出した新徴税法の草案が、置かれている。
「始める前に、言っておこう」
ヴァルデマールの声は、老いて、なお太かった。
「国の帳簿は、小娘の手習いとは、桁が違う。領の帳は、麦と戸数を数えれば締まる。国の帳には、戦も、飢饉も、隣国も、載っておる。――それでも、開けと申すか」
「はい」
わたしは、一礼した。
「国の帳簿を、開いてください。桁が違うなら、なおのことです。桁の大きな間違いは、桁の大きな痛みになりますから」
わたしは、一冊目を、机に置いた。
「グラウフェルト先代辺境伯の、帳簿です」
三十年前のページを、開く。四百グルデンだった賦課が、ある年、何の説明もなく、八百になる。国庫の「立て直し」が始まった、まさにその年に。
諸侯の列の、年かさの席で、誰かが、小さく息を呑んだ。先代様を、覚えている人が、まだいるのだ。
「二冊目。ライゼンタール伯爵家の帳。……わたしが十年、つけていたものです」
領や家々が納めた額と、国庫に納まったと申告された額。その間に横たわる差額が、請負の帳を通って、どこの穴を埋めてきたか。一幕目で立証された中抜きの流れの、その先を、指で辿る。
「三冊目。グラウフェルトの、現在の帳。黒字を出した途端に課された、特別賦課の記録です」
三冊を御前に、並べた。
「一冊の帳は、間違えます。書いた者の思い違いも、ございます。けれど――別々の場所で、別々の人間が、別々の年月に、互いを知らずにつけた三冊の帳が、同じ一本の流れを指すなら。それはもう、言い分ではありません。事実です」
三十年前に始まった付け替えが、貴族の請負を通り、領の賦課となり、いままた、特別賦課の名で伸びてくる。三冊の帳は、その川筋を、上流から下流まで、指していた。
御前の間が、ざわめいた。
諸侯の列の、あちこちで、扇が揺れる。「三十年」「では、我が領の賦課も」という囁きが、さざ波のように、広がっていく。付け替えの川下に、身に覚えのある領は、一つや二つでは、ないのだ。
玉座の王は、口を挟まなかった。ただ、三冊の帳を、順に、目で検めていた。
ヴァルデマールは、動じなかった。
「――見事な、写経だの」
静かな声だった。
「だが、小娘。そのどの一枚も、当時の法と手続きに、則っておる。賦課の改定は財務院の権限。請負は王国の定めた制度。特別賦課とて、規程のとおりよ。……不正の証など、どこにもあるまい」
「はい。おっしゃるとおりです」
わたしは、うなずいた。
「不当。しかし、合法。――それが、この三十年の正体です。ですからわたしは、あなたの罪を裁きに来たのではありません。法を、直しに参りました」
「ほう。……では、証の話をしようか」
老財務卿は、机の上の三冊を、順に、指さした。
「一冊目は、死人の帳。書いた者に、もう問えぬ。二冊目は、お前自身の筆。自分で書いた帳を、自分の証に立てるか。三冊目は、争いの当事者の帳よ。……どれも、一冊ずつなら、法廷では紙切れだの」
「一冊ずつなら、おっしゃるとおりです」
わたしは、引かなかった。
「ですから、三冊なのです。先代様は、わたしの生まれる前に、この数字を書きました。わたしは、辺境を知る前に、実家の帳を書きました。互いを知らない三冊が、口裏を合わせることは、できません。――それに、卿」
わたしは、実家の帳の、納付の行を開いた。
「わたしの筆が嘘なら、冬の御前検分で、王国の台帳との突き合わせに、耐えられたはずがありません。どうぞ、今一度、財務院の帳と、突き合わせてください。嘘は、相手の帳と揃えられないから、嘘なのです」
ヴァルデマールの目が、細くなった。怒りではない。値踏みだった。
「……よかろう。帳の話は、それまでとしよう」
わたしは、草案に、手を置いた。
「新徴税法。賦課の算定根拠は、すべて公開する。請負徴税は、廃止する。検め直しは、常設する。特別賦課は、廃止する。……帳簿と同じです。誰でも検められる帳だけが、正しくあり続けられます」
「――では、聞くが」
ヴァルデマールが、初めて、身を乗り出した。
「三十年前の冬。国庫には、兵の給金の、三月ぶんもなかった。橋は落ちたまま、灰の境の砦への荷も、途切れかけた。……あのとき、誰も、金の話をしたがらなんだ。皆、剣と誉れの話ばかりよ。帳を抱えたのは、わし一人だった」
(……この人は、三十年前、たった一人で、帳を抱えた。わたしが、辺境に来た夜と、同じように)
「わしは、あの冬に、この国を潰さぬと決めた。それからの三十年、国の帳尻に、狂いはない」
老いた指が、とん、と机を打つ。
「付け替えを止めて、国の赤字は、誰が埋める? 理想は、帳簿の右側には載らんのだ、小娘。お前の法で国庫が傾いたとき、責めを負うのは、お前ではない。国じゅうの民よ」
御前の間が、静まり返った。
正しい問いだった。
(……この問いに、答えられた者が、いなかった。だから、先代様の筆は止まり、この仕組みは三十年、生きてきた)
怒りで返してはいけない。理想で返しても、いけない。この人は三十年、この問いを、たった一人で背負ってきた。それに応えられるのは、志ではなく、数字だけだ。
玉座の王が、初めて、口を開いた。
「――財務官。答えは、あるのか」
わたしは、三冊目の帳に、手を置いた。辺境の帳。この五年の、痩せた年月と、育ち始めた一年が、全部載っている帳。
「……お答えします。明日、この帳で」
その日の御前は、そこで、散会となった。
御前の間を出るとき、ヴォルフ様が、低く、言った。
「……親父も、聞いていたな」
「ええ。特等席で」
わたしの腕の中で、三冊の帳は、静かに、明日を待っていた。
第57話、お読みいただきありがとうございます!
三冊の帳簿が、御前に並びました。先代の帳が起点、実家の帳が中間、辺境の帳が現在。三十年の付け替えを、一本の川として立証します。第1部から積み上げてきた帳簿の、総動員です。
そしてヴァルデマールの反問。付け替えを止めて、国の赤字は誰が埋めるのか――これは詭弁ではなく、正しい問いです。だから答えは、明日、数字で。
次回・第58話「その黒字、誰の赤字ですか」。
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