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第56話:先代の、出せなかった抗議

遺品箱は、樫の木でできていた。


蓋にはグラウフェルトの紋。物置で外れた錆びた留め金は、もう、閉じようとはしなかった。


御前決算の期日が決まった、その晩。わたしたちは、物置で開けたその箱を、二人がかりで、執務室の机まで、運び込んだ。中身を検めるなら、灯りと、暖炉のある場所で。ヴォルフ様が、そう望んだのだ。


「親父の部屋の物を、ぜんぶ収めた箱だ。……開けるのに、十年かかった」


「今夜で、よかったのだと思います」


「ああ。……期日が決まって、思った。王都へ行くなら、親父に断ってからにしよう、とな」


わたしは、急かさず、蝋燭を一本、箱の近くへ寄せた。ヴォルフ様が、開いた蓋を、大きく起こす。


箱の中には、帳面が、束になって眠っていた。


一冊や、二冊ではない。取り出して机に積み上げると、ちょっとした砦になった。古い革の表紙。日に焼けた紙。ページの端は、何度もめくられたのだろう、柔らかく毛羽立っている。


先代辺境伯――ヴォルフ様のお父君の、帳簿だった。


「……拝見しても、よろしいですか」


「ああ。そのために、開けた」


わたしは一冊目を、開いた。


(……丁寧)


一目で、分かった。誰かに教わった帳の付け方ではない。我流だ。両建てでもない、昔ながらの、片側だけの帳。けれど、一行一行が、驚くほど、誠実だった。


麦の出来。戸数の増減。賦課の額。納めた日付。橋の修繕。冬越しの備え。


領の暮らしが、そのまま、数字になって、並んでいた。


ところどころに、短い書き込みがある。


『今年は良い麦。祝いの酒を、村に二樽』


『東の橋、また流れる。修繕は、来年に延ばす』


『祝いの酒、今年は、取りやめ』


年を追うごとに、祝いの行が減って、「延ばす」「取りやめ」の行が、増えていく。


ページを繰るうち、わたしの指が、ある年で、止まった。


賦課の額が、変わっている。


前の年まで、四百グルデン。その年から、八百グルデン。


倍。たった一年で。説明の書き込みは、どこにもない。ただ、その行の墨だけが、他の行より、濃い。筆を、強く押しつけて、書いたのだ。


「ヴォルフ様。これを」


「……どうした」


「三十年前、この領の賦課は、四百から八百に、倍にされています。――四百。わたしが着任の年に算定した、適正の賦課と、同じ数字です」


帳簿から導いた、あの数字。正しかったのだ。三十年前まで、この領は、実際に、その額で立っていたのだから。


そして三十年前といえば。傾いた国庫を、ヴァルデマールが「立て直し」始めた、まさにその年。


(……見つけた。付け替えの、最初の一行)


さらに二年ほど先のページに、ひときわ、みずみずしい書き込みがあった。


『ヴォルフ、生まれる。良い年だ。……賦課のことは、今日だけ、忘れる』


ヴォルフ様が、黙って、その行を見ていた。長いこと、見ていた。


「……俺の生まれた年も、帳簿の中か」


「ええ。いちばん、嬉しそうな字で」


帳面の束の、いちばん下に、紙の包みがあった。


開くと、書きかけの書状が、何通も、重なって出てきた。宛先は、王国財務院。どれも、同じ書き出しで始まって、途中で、終わっている。


『本領への賦課は、算定の根拠を欠く。よって、検めを求める』


墨で消され、書き直され、また、消され。


最後の一通だけが、最後まで書き上げられ、署名まで済んでいた。けれど、封はされないまま、日付の横に、小さく、震えた字で、こう添えられていた。


『出せば、領が潰される。出さねば、わしが腐る』


しばらく、誰も、口をきかなかった。


暖炉の火が、ぱち、と鳴った。


「……親父は」


ヴォルフ様の声は、低く、掠れていた。


「諦めた人だと、思っていた。中央に取られるまま、何も言わず、ただ、痩せていって。……俺は、それが悔しくてな。数字なんか、と思った。数字では、誰も守れんと」


「違いましたね」


わたしは、書状を、そっと、彼のほうへ向けた。


「お父君は、戦っていました。数字で。最後まで」


賦課が倍にされた年から、亡くなる年まで。帳面の筆跡は、年を追うごとに、細っていく。それでも、一日も、途切れていない。取られた額を、取られた日付を、克明に、記し続けている。


いつか、誰かが、検めてくれる日のために。


「ただ、お一人だったんです。この帳を突き合わせる、もう一冊の帳が、この世のどこにもなかった。一冊きりの数字は、どれほど正しくても、『言い分』にしかならない。……だから、出せなかった」


扉が、控えめに叩かれて、ギードが、夜食の盆を持って入ってきた。


そして、机の上の帳面を見て、盆を持ったまま、立ち尽くした。


「……先代様の、お手だ」


「ギード。知っていましたか。この帳のこと」


「夜更けの執務室で、先代様が何かを書いておられる背中は、何度も見た。だが、中身までは。……いや」


老副官は、首を、ゆっくり振った。


「知ろうと、せなんだ。知れば、わしまで、あの方の無念を背負わねばならん気がしてな。……卑怯な忠義よ」


盆を置いて、ギードは、帳面の一冊を、皺だらけの手で、そっと撫でた。


「先代様は、よう笑う方だった。酒が入ると、下手な歌まで歌われた。……だが、賦課の使いが来る月だけは、館から笑い声が消えたものよ。若様は、覚えておられますまいが」


「……覚えている」


ヴォルフ様が、静かに言った。


「あの月だけ、親父は、俺に剣の稽古をつけなかった。夜中に、この部屋の灯りだけが、点いていた。……あれは、この帳を、つけていたんだな」


「卑怯では、ありません」


わたしは、ギードに言った。それから、二人に。


「帳は、残っています。読み手を、三十年、待っていただけです」


ヴォルフ様は、長いこと、父の帳を見下ろしていた。


それから、両手でそれを取り上げて、わたしの前に、置き直した。


「……親父の帳を、お前に預ける。俺の代わりに、読んでやってくれ」


「はい」


「親父は、これを、出せなかった。……出してやって、くれるか。三十年、遅れたが」


「お約束します」


わたしは、母の形見のそろばんを、先代様の帳簿の横に、並べた。


出せなかった人の帳と、教えてくれた人のそろばん。わたしの戦支度は、いつだって、遺してくれた人たちのもので、できている。


(起点は、先代様の帳。中間はわたしの実家の帳。現在は、この辺境の帳)


三冊を突き合わせれば、三十年の付け替えは、一本の流れとして、御前に示せる。国庫の穴を埋めるために引き上げられた、あの八百。その毒が、貴族の請負を通って、国中の帳簿へ広がった、その川筋のすべてを。


「三十年遅れの抗議文です。――利子をつけて、届けましょう」


その晩、わたしは、明け方まで、先代様の帳を読んだ。ヴォルフ様は、何も言わずに暖炉へ薪を足し、何も言わずに、隣に座っていた。二人で、お父君の三十年を、最初のページから、最後のページまで、読み通した。


翌朝の出立には、領民が、門の外まで並んでくれた。


マルタは、旅の食料を、馬車が傾くほど積んでくれた。ニコは、弟子の子たちの先頭で、胸を張った。


「留守の帳は、おいらたちが、一の位まで守るから。だから、お土産は要らないよ。……勝って、帰ってきて」


「ええ。行ってきます」


わたしの膝の上には、三冊の帳。先代様の帳は、束の中から、あの賦課の行の載る、要の一冊を選んだ。


窓の外を、春の畑が流れていく。蒔いたばかりの種が、目を覚まし始めた畑が。


わたしたちは、王都へ発った。三十年分の、検め直しに。

先代辺境伯は、諦めた人ではなく、戦い切れなかった人でした。出せば領が潰れ、出さねば自分が腐る。その板挟みのまま、書きかけの抗議は三十年、箱の底にありました。それが息子の手から、エルナへ渡ります。ヴォルフの「読んでやってくれ」は、武の人が数字の戦いを託す、彼にとっていちばん重い言葉です。


次回・第57話「国の帳簿を、開いてください」。決戦です。


三十年ぶんの紙を、明日、開きます。

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