第55話:国を黒字にしてきた男
「ハーゲン殿。折り入って、お願いがあります。――財務卿ヴァルデマールという人の帳簿を、教えてください」
御前決算の返答が届いた、その夜。期日は、ひと月ののち、王城にて、と定められていた。わたしは、王都まで同道を申し出てくださった検分使殿を、執務室にお招きした。
「戦いの前に、相手の数字を読む。……財務官殿の、いつもの流儀ですな」
「ええ。バルトロトのときも、ローデリヒのときも、わたしは、まず帳簿を読みました。でも、あの方の数字だけは、読めません。国の帳簿は、辺境からは、遠すぎて」
ハーゲン殿は、しばらく暖炉の火を、見ていた。
それから旅嚢の底から、古びた革表紙の帳面を、三冊、取り出した。
「――検分の記録です。ただし、私のものではない。私を検分使に育てた、先代の検分使が、遺したもの。三十年前から、二十年前までの、諸領の検分の控えです」
「三十年前……」
「ヴァルデマールが、まだ、財務院の一介の書記だった頃からの、記録ということです。……検分使は、中立。ゆえに、どちらの帳簿も、読まれるべきでしょう。師も、そのつもりで、これを遺したのだと、思っています」
その夜、わたしは、ヴォルフ様と並んで、三冊の記録を読んだ。
そこには、わたしの生まれるより前の、この国が、書いてあった。
三十年前。国庫は破綻の淵にあった。続いた凶作と、積もり積もった王宮の費え。国の帳簿は、右を見ても左を見ても赤字で、隣国への支払いにさえ、事欠く有様だったという。
そこに一人の若い書記がいた。
夜ごと人のいなくなった帳庫に残り、国中の帳簿を、たった一人で読んでいた男。上役たちが匙を投げた数字の山を、端から端まで、幾晩も幾晩も、検め続けた男。
記録は、その姿を、こう伝えている。蝋燭が尽きると、月明かりで読んだ。誰も手伝わなかった。誰もねぎらわなかった。国の沈んでいく音を、帳簿の上で、その男だけが、聞いていた――と。
――若き日の、ヴァルデマール。
その男のやったことは、記録の上では、簡潔だった。
国庫の赤字を、消したのでは、ない。
――移したのだ。
地方の賦課を、一斉に引き上げる。中央の負債を書類の上で、各地の領の帳簿へ、付け替える。国の帳面からは、赤字が消える。けれど消えた赤字は、どこへも行かない。ただ王都から見えない場所で、誰かの帳簿に、載り続けるだけ。
グラウフェルトの賦課が、八百グルデンと定められたのも――その年、だった。
(……この一行。この筆のひと振りが)
わたしは、頁の上の、古い墨の数字を、指で、なぞった。
この一行が、三十年、この土地を痩せさせた。村々から人を追い、食卓から湯気を消し、そして――先代の辺境伯を、抗議の声も届かぬまま、死なせた。
隣で読んでいたヴォルフ様の目が、その一行の上で、長く止まっていた。
「……親父が戦っていた相手は、代官でも、財務伯でもなかったんだな」
「……はい。この、付け替えの仕組み、そのものです」
ヴォルフ様の拳が、卓の上で、固く握られていた。
「……憎んで、いいのか。これは」
「憎むのは、自由です」わたしは、静かに、答えた。「でも、憎しみは、帳簿を読めなくします。……最後まで、読みましょう。憎むかどうかは、それから決めても、遅くありません」
拳がゆっくりと、ほどけた。この人は、こういうとき、必ず、わたしの言葉を信じてくれる。
記録には、先代の検分使が、各地の窮状を財務院へ訴え上げたときの、若きヴァルデマールの返答も、書き残されていた。
『地方は痩せる。分かっている。だが、国が倒れれば、地方ごと、死ぬ。どちらかの帳簿にしか載せられぬ赤字ならば、わしは、国の帳簿から消す』
そして記録の余白に、先代の検分使は、細かい字で、こう書き添えていた。
『この男に、私欲の影は、ない。俸給のほかは、一グルデンも取らぬ。屋敷を持たず、官舎の一室に住まい、帳庫に寝起きして、国の帳とともに老いていく。……それゆえに、誰にも、止められぬ』
わたしは、その一文の前で、長く動けなかった。
私腹を肥やす男なら、いつか必ず、しくじる。バルトロトのように。ローデリヒのように。欲は、遅かれ早かれ、帳簿に穴を開ける。わたしは、その穴を見つけては、詰めてきた。
けれどこの人の帳簿には――穴が、ない。
この人は、本気で、国を救ったのだ。おのれの暮らしも、名誉も、おそらくは良心の痛みまで、ぜんぶ費えに繰り入れて。誰かの赤字で、国の帳尻を、三十年間、合わせ続けてきた。
帳尻を合わせる、とは。足りない分を、どこかから、持ってくること。
その「どこか」に選ばれたのが、声の小さい順だった。――それだけの、ことだった。
三冊目の終わりに、先代の検分使が、面と向かって問うた記録が、あった。
『卿。あなたのなさりようは、正しいのか』
答えは一行だった。
『わしは、国を黒字にしてきた。――ほかに、できた者がおるなら、連れてまいれ』
わたしは、記録を閉じて、暖炉の火を、長いこと見ていた。
(……この人は、わたしのもう一つの答えだ)
夜ごと一人で帳簿を読む。誰にも読めない数字を、一人で背負う。赤字は天災ではなく設計だと見抜いて、設計の側に、手を入れる。――同じだ。形だけを見るなら、あの人のしてきたことは、わたしと恐ろしいほど、同じ。
違いはたった、一つ。
その帳の腕を、誰の側で使うか。
あの人は、国の帳簿の側に、立った。だから帳簿の外にあるもの――逃げていく村人も、湯気の消えた食卓も、抗議の声を呑んだまま死んだ辺境伯も、見なかった。見ないことに決めたのだ。三十年前のあの帳庫の夜に。
わたしは、たまたま、その「見えない側」へ、捨てられた。捨てられて、そこの食卓の湯気を、知ってしまった。……それだけの、違い。
(もしも、わたしが、あの夜の帳庫にいたら。あの数字の山の前で――違う答えを、出せたかしら)
出せた、と言い切れるほど、わたしは、自分を知らないわけではない。
だからこれは、悪人退治では、ない。
三十年前に、一人の天才が出した答えへ。三十年後のもう一人が、別の答えを、突きつけに行く。御前決算とは、そういう場に、なる。
「エルナ」
ヴォルフ様が立ち上がった。何かを決めた人の、顔をしていた。
「王都へ発つ前に、開けておきたい物がある。……付き合ってくれるか」
彼が、わたしを連れて行ったのは、館の物置のいちばん奥だった。
埃をかぶった、大きな木箱が、一つ。鉄の帯で締められた、古い箱。
「親父の遺品だ。死んだとき、部屋にあった物を、ぜんぶ、ここに入れた。……開けたことは、一度もない。数字から逃げていた俺には、開ける資格がない気が、していてな」
ヴォルフ様は、箱の前に片膝を、ついた。
「だが、今は、違う。親父が、何と戦って、何を遺したのか。――知った上で、王都へ行く」
錆びた留め金が、きしんで、外れた。
積もった埃が、灯りの中を、ゆっくりと舞い上がる。
箱の中に――それはあった。
私腹を肥やさず、官舎の一室で、国の帳簿とだけ生きてきた男。ヴァルデマールは、エルナの「もう一つの答え」です。夜ごと一人で帳簿を読み、赤字は設計だと見抜き、設計に手を入れる――形は、まったく同じ。違うのは、その腕を誰の側で使うか、それだけです。だからこの戦いは、悪人退治ではなく、答え合わせになります。
そして最後に、ヴォルフが父の遺品箱を開けました。長いあいだ、蓋の開かなかった箱です。
次回・第56話「先代の、出せなかった抗議」。
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