第52話:正しい帳簿の、間違った使い方
春の辺境は、忙しい。
種蒔き。畑起こし。雪解け水を、治水の堀へ導く普請。交易路には、今年最初の隊商が発って、ニコたち弟子は、荷の帳付けで、大得意だ。黒字の二年目は、種を蒔ける場所が、去年より、ずっと増えている。
婚姻の認可も、下りた。式は、初夏。マルタたちが、わたしの頭越しに、もう、祝いの献立の相談を始めている。
(……順風ね。順風のときほど、帳簿は、慎重に読むものだけれど)
その矢先だった。
「財務官様。王都から――布告じゃ」
ギードが、執務室に、一枚の写しを持ってきた。街道の宿場に貼り出されたものを、交易帰りの御者が、写してきたのだという。
『王国財務院は、帳式の統一を布告する。全国の領は、来期より、両建ての帳をもって徴税の帳簿を作成すべし――』
読み始めて、わたしは、一度、目を疑った。
両建ての帳。
わたしの帳が――国の布告に、載っている。
「ほう。両建ての帳といえば、財務官様の帳ではないか。……こりゃあ、大したことじゃぞ。ニコが聞いたら、飛び上がる。お姉ちゃんの帳が、国のお手本になったとな」
ギードは、笑おうとして、わたしの顔を見て、やめた。
わたしは、笑って、いなかった。
読み進めるほど、指先が、冷えていった。
(……違う。これは、わたしの帳じゃない)
形は、そっくりだった。受けと払いを、左右に分けて書く。両側から、突き合わせて検める。教われば誰でも使える、あの形。骨組みは、寸分違わず、わたしの帳だ。
けれど、使い道が、逆さまだった。
わたしの帳は、領主が、自分の懐を検めるためのもの。取りすぎていないか。無駄をしていないか。数字を隠さず、領民に開くためのもの。
布告の帳は、逆を向いていた。
領民の一軒一軒に、帳をつけさせる。役人が、それを検めに回る。帳に載らない稼ぎ――「取り漏らし」を探し出しては、追徴する。帳が合わなければ、罰金。帳を書けない者にも、罰金。挙げた取り漏らしの多寡が、役人の手柄になる、とまで書いてある。
字の書けない者は、どうなるのだろう。マルタの村の、年寄りたちの顔が、次々に、浮かんだ。
帳簿は、ああいう人たちを守るために教えるもので――罰するために網を張るものでは、なかったはずだ。
「……ギード。この布告はね、帳簿の形をしているけれど、中身は、狩りの触れなんです」
「狩り、ですと」
「ええ。国中の民に、自分の懐の絵図を描かせて、その絵図を頼りに、搾り残しを狩る。……正しい帳簿の、間違った使い方です」
道具は、正しい。正しいからこそ、性質が悪い。
よく切れる刃物ほど、人に向けられたとき、深く刺さる。わたしは――この国でいちばんよく切れる刃物を、研ぎ上げて、ご丁寧に使い方まで見せて、渡してしまったのだ。
(オイゲンの査察。……そういうこと、だったのね)
あの男が持ち帰ったのは、この領の数字だけでは、なかった。帳式。書式。検め方の手順。わたしが領を守るために磨いてきた道具が、そっくりそのまま写し取られて――逆さに、組み直された。
昼過ぎ、噂は、館の中を、駆け回った。
「お姉ちゃん、聞いたよ!」
執務室に飛び込んできたニコは、頬を、上気させていた。
「王様の布告に、お姉ちゃんの帳が載ったって! 国中のみんなが、おいらたちと同じ帳をつけるんだって! すごいや! なんで――」
そこで、ニコは、わたしの顔を見て、言葉を、途切れさせた。
「……なんで、そんな顔、してるの」
(……この子に、どう言えばいいのかしら)
あなたの覚えたあの帳が、よその領では、罰金の道具になるのよ。玉っころの検算が、誰かの店を畳ませる手伝いになるのよ。――そのままは、言えなかった。
「ニコ。帳簿はね、道具なの。……包丁と、同じ」
わたしは、できるだけ、静かに、言った。
「マルタの包丁は、煮込みを作る。でも、同じ包丁で、人を脅すことも、できてしまう。いま王都が配ろうとしているのは、そういう持ち方をされた、わたしたちの帳なの」
ニコは、しばらく黙って、それから、ぼそりと、言った。
「……取り返しに、行くんだろ。お姉ちゃん」
「ええ。もちろん」
「なら、いいや」と、小さな弟子は、うなずいた。「おいら、留守番、もう慣れてるし」
(……この子は、本当に、育ったわ)
夕刻、普請場から戻ったヴォルフ様に、わたしは、布告を見せた。
読み終えるまで、たっぷり、時間がかかった。それから、彼は、低く、言った。
「……お前の帳が」
「はい」
「親父を潰した側の、道具に、されたのか」
その一言が、いちばん痛いところへ、まっすぐに、届いた。
わたしは、うつむきかけた顎を、意地で、支えた。
正直に、白状すれば――こたえていた。
バルトロトの侮りは、痛くなかった。ローデリヒの刃も、オイゲンの書式も、痛くなかった。あれはぜんぶ、わたしの外側への攻撃だった。数字で受けて、数字で返せば、済んだ。
けれど、これは、内側だ。
わたしが、人生でただ一つ、誇りにしてきたもの。母の形見で。もう一つの生の、たった一つの証で。この領を救い、あの丘の上で「宝だ」と言ってもらえた、わたしの帳。
それがいま、搾る側の手に握られて、国中の――マルタやニコのような人たちの食卓の上に、振り下ろされようとしている。
「わたしのせいだ、なんて、殊勝なことは、言いません。刃物を鍛えた者に、振り回した者の罪までは、載せられませんから。……でも」
声が、少しだけ、揺れた。
「でも、あの帳をこの国に持ち込んだのは、わたしです。わたしの帳が、どこかの領の、顔も知らない誰かの食卓を、削りに行く。……それを、自分の帳簿の外のことだと、澄ましていられるほど――わたしは、器用に、できていません」
ヴォルフ様は、何も言わなかった。
ただ、大きな手が、わたしの頭に、ぽん、と載った。
それから、不器用な人が、精いっぱい、わたしの言葉を探して、言った。
「お前は、いつも言うだろう。赤字は天災じゃない、設計ミスだと。……なら、これも同じだ。あの布告は、天災じゃない。誰かの、設計だ。設計が間違っているなら――どうするんだったか、財務官殿」
(……この人は、言葉の帳尻だけは、いつも合わせてくる)
わたしは、息を、深く吸った。胸の中のそろばんを、ご破算にして、静かに、置き直す。
「――設計し直せば、いいんです」
「そうだ。それでこそ、うちの財務官だ」
わたしは、布告の写しを、手に取った。指先は、もう、冷えていなかった。
「道具に罪はありません。使い方を、正しに行きましょう」
刃物の正しい使い方を、この国でいちばんよく知っているのは――それを鍛えた、わたしなのだから。
窓の外では、春の畑に、夕陽が落ちていた。
種を蒔く人の影が、長く、伸びている。あの影の上に、罰金の網は、張らせない。この領でも。……どこの、領でも。
わたしは、机に、白い紙を、一枚、置いた。まずは、敵の設計を、隅から隅まで、写し取ること。そのうえで、元の設計のどこが歪んでいるのかを、一本ずつ、洗い出すのだ。
夜が、更けていく。
暖炉の火の音と、そろばんの音だけが、静かに、部屋に残った。
第52話、お読みいただきありがとうございます!
自分の作った道具が、いちばん嫌いな使い方をされる。エルナにとって、剣で斬られるより痛い回でした。バルトロトにもローデリヒにも折れなかった人が、初めて指先の冷える一撃です。それでも「道具に罪はありません。使い方を、正しに行きましょう」と立ち直るのが、うちの財務官です。
次回、隣の領から、懐かしいお客さんがやってきます。――ただし、頬がこけて。
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