第53話:隣の領の、見覚えのある赤字
その客人は、春の交易路を、逃げるようにやってきた。
「――コンラートさん?」
荷下ろし場でその姿を見て、わたしは、目を疑った。
ヴェント領の商人、コンラート。この領の交易の取り決めを、最初に結びに来てくれた、あの実直な人。歩合の割をめぐって、一晩じゅう、わたしとそろばんをはじき合った、商いの好敵手。
その人の荷馬車には、いつもの半分も、荷が積まれていなかった。頬がこけ、目の下に、濃い隈があった。
「お久しゅうございます、財務官様。……いや、お恥ずかしい。今日は、商いに参ったのでは、ないのです」
彼は、荷台から風呂敷包みを下ろした。
中身は、反物でも、香辛料でもなく――帳簿の束、だった。
「ヴェントの、仲間の商人たちの帳です。どうか、検めてやってください。……うちの領の商いが、死にかけております」
執務室でわたしは、その帳簿を、一冊ずつ、開いた。
見覚えのある、書式だった。両建ての帳。あの布告が、街道一本で王都と繋がる隣領では、もう始まっているのだ。
そして並んだ数字は――ひどいものだった。
「……売り上げが、どの店も、三割から半分、落ちている。この短い間に」
「ええ。ええ、そうなのです」
コンラートさんが、膝の上で拳を握った。
「布告は『来期より』と、ございました。ですが、ヴェントは、試しの領にされたのです。布告より、ずっと早くから――去年の暮れには、もう、検めが始まっておりました」
彼は、帳簿の束に、目を落とした。
「帳に載らない稼ぎが見つかれば、追徴。帳の勘定が違えば、罰金。役人が、月に一度、店を検めに来ます。……それで、商人たちが、どうしたと思われます」
「――商いを、縮めた」
「ご明察です。大きく売れば、大きく検められる。なら、目をつけられない程度に、小さく売る。新しい店を出す者は、絶えました。荷を増やす者も、人を雇う者も。……皆、帳面の目を恐れて、身を縮めております」
彼は、一度、言葉を切って、それから、絞り出すように、続けた。
「……粉屋の、老夫婦が、おりました。四十年、続いた店です。婆さまが目を悪くして、帳の字が、書けなくなった。それだけのことで、月々の、罰金です。先月、店を、畳みました。……四十年ですぞ、財務官様。帳簿とは、いつから、店を潰す道具になったのです」
わたしは、すぐには、答えられなかった。
(帳簿を書ける者しか、守らない制度。……わたしの帳は、そんなふうには、できていない)
わたしは、帳簿の頁を静かに繰った。
追徴の欄だけが、景気よく膨らんでいる。そしてその隣で、来期の仕入れの欄が、どの帳簿でも、痩せ細っていく。
(帳簿の上では、ヴェントの役人は、今年、勝っている。……来年の欄が、まだ白いから、そう見えているだけ)
(……やっぱり、こうなる)
実った畑から、実った分だけ持っていけば、誰も、畑を耕さなくなる。特別賦課のとき、広場でマルタに話した、あの理屈。あれと同じことが、いま布告の形で、国中の商いに起きている。
「コンラートさん。一つ、伺います。ヴェントの国庫への納めは――今年は、増えたでしょう」
「は……。ええ、増えました。役人たちは、布告の成果だと、誇っておりましたが」
「でも、来年は、減ります。再来年は、もっと。……税というのはね、畑と同じなんです。商いが育てば、そこから納まる税も、育つ。商いが痩せれば、税も、痩せる。今年の追徴は、収穫ではありません。畑の土を、削って売っているだけです」
種籾まで食べてしまう、飢えた冬。あれと同じことを、いま国が、布告の顔でやっている。
「財務官様……手前どもは、どうすれば、よいのでしょう」
その声は、もう商人の声ではなかった。ただの疲れ果てた人の声だった。
わたしは思い出していた。初めて会った日の、この人を。一括五百グルデンの買い取り話を蹴ったわたしに、目を丸くして、それから、面白がって、夜の更けるまで歩合の割を詰め合った、あの生き生きした顔を。
商いの話をするとき、この人は、いつも、楽しそうだった。
その人が、いま目の前でこんな顔をしている。
(……辺境だけ勝っても、駄目なのよ)
特別賦課は撤回させた。査察は退けた。請負徴税の頭も、御前で失脚させた。この領の帳簿は、もう誰にも、荒らさせない。
けれど街道の先で、ヴェントの店の灯が消えていくなら。コンラートさんの荷馬車が、空になっていくなら。
この領の黒字は、痩せていく国の真ん中に浮かぶ、小さな孤島になるだけだ。そして孤島のまわりの水は――いつか必ず、上がってくる。
「コンラートさん。この帳簿は、お預かりします。それから、もう一つ、お願いが」
わたしは、白紙の帳面を、一冊、引き寄せた。
「あなたの見てきたことを、ぜんぶ、聞かせてください。どの店が、いつ、何を恐れて、商いを縮めたか。一軒ずつ、数字と、名前で」
「それは、構いませんが……財務官様。それを集めて、何を、なさるおつもりです。また、検め直しを?」
わたしは首を横に振った。
「いいえ。もう、検め直しでは、追いつきません。悪い使い方を、一つずつ潰しても――悪い仕組みが残っている限り、次の使い方が、また生えてくる。だから」
白紙の一枚目に、わたしは、筆を置いた。
「仕組みの方を、書き直します。税の取り方の、正しい設計図。……新しい税法を、作ります」
コンラートさんが、大きく目を見開いた。
「法を……財務官様が、お作りになる、と」
「ええ。畑を痩せさせない取り方なら、この領で、もう、試してあります。数字も、実りも、帰ってきた人の頭数も、ぜんぶ揃っている。あとは、それを、国の言葉に書き写すだけです」
聞き取りは、昼を跨いで、夕方まで続いた。一軒、また一軒。コンラートさんの記憶は、商人らしく、正確だった。萎んだ店の名前が、白紙の帳面を埋めていく。
途中、彼は、ふと窓の外に目をやった。
広場では、春市の支度が、始まっていた。戻ってきた者たちの露店。子供らの駆ける音。ニコが、荷の勘定を頼まれて、得意げに玉を弾いている。
「……賑やかですな、この領は」
「わたしが来た頃は、逃げた家の戸板が、風に鳴るだけの広場でした。……戻るんです、コンラートさん。取り方さえ間違えなければ、人も、商いも、必ず戻る。ヴェントは、萎み始めて、まだ一年もたっていない。畑と同じで、根まで枯れる前なら、育て直せます」
「……その言葉を、うちの領主様にも、聞かせてやりたいものです」
口にすれば、静かな一言だった。
けれどそれが何を意味するかは、分かっていた。布告を出したのは、財務院。財務院の頂点に座るのは、財務卿ヴァルデマール。仕組みを書き直すとは――あの人が三十年かけて組み上げた国の帳簿の、いちばん深い一行に、正面から筆を入れるということだ。
夕刻。コンラートさんは、マルタの台所で、湯気の立つ豆の煮込みを、何度もむせながら、平らげた。
「……うまい。ヴェントの食卓にも、この湯気を、戻したいのです」
「戻しましょう。――数字は、そのために、あるんですから」
軽くなった荷馬車を見送って、わたしは、執務室へ戻った。
その夜。わたしは、母のそろばんを、机の真ん中に置いた。
難しい仕事を始める夜の、わたしの、儀式。
(母さん。あなたの帳は、領を一つ、立て直しました。……今度は、少しだけ、大きな帳場です)
ぱちり、と、玉を一つ、弾く。
机の上で白紙の帳面が、最初の一行を待っていた。
取れるだけ取ると、来年は何も取れない。第4話で辺境に起きたことが、いま、国の規模で始まっています。今年の追徴は収穫ではなく、畑の土を削って売っているだけです。撤回でも検め直しでもなく、エルナはついに、仕組みそのものを書き直す側へ回ります。
次回・第54話「新しい税法の、最初の一行」。白紙の帳面が、一冊。
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