第51話:わたしの帳の、最初のページ
王都から辺境へ、馬車で八日。
来たときと、同じ道。同じ日数。なのに、帰りの八日は、ずっと短く感じた。
(不思議ね。距離は、一歩も、縮んでいないのに)
街道の雪は解けかけて、轍の泥の間から、気の早い緑が、顔を出している。早春の辺境。灰の境の山並みは、まだ白いけれど、麓の畑には、もう、鍬を入れる人影があった。
門の前には、人が、集まっていた。
マルタが、村人たちが、そして、ニコと弟子の子たちが、ぴょんぴょん跳ねながら、手を振っている。
「お帰りなさいませ、財務官様!」
「ただいま、みんな。――さあ、見せてちょうだい」
挨拶より先に、わたしがそう言うと、ニコが、待ってましたとばかりに、胸を張った。
「かんぺきだよ! おいらたち、一日も欠かさず、帳をつけたんだから!」
執務室の机には、留守の間の帳簿が、日付の順に、きちんと積まれていた。
わたしは、その夜のうちに、ぜんぶ、検めた。
ニコの字は、少し力みすぎで、紙の裏まで、凸凹している。年下の弟子の字は、逆に、頼りなく震えている。旅立ちから三日目のところに、一箇所、繰り越しの写し間違い。そして、そのすぐ翌日の頁で、朱の字で、直してあった。誰かが気づいて、自分たちで、検め直したのだ。
(……ちゃんと、帳になっているわ)
間違えない帳簿は、ない。間違えて、気づいて、直して、また続く。それが、生きている帳簿だ。わたしの留守中、この領の数字は、ちゃんと、呼吸をしていた。
「上出来です。みんな、本当に」
翌日の昼、そう告げると、ニコたちは、拳を突き上げて、歓声を上げた。
「して、王都の水は、どうでしたかな、財務官様」
「ギード。水は、良かったですよ。帳簿の水質は、最悪でしたけれど」
「はっは。土産話は、それで充分じゃ」
マルタの采配の祝いの夕食は、湯気の立つ鍋と、焼きたてのパンと、蜂蜜酒。長机には、村の顔が、ぎっしりと並んだ。王都で出された、どの晩餐より、豊かだった。
(……ただいま。わたしの、帳場)
――その夜、更けてから。
わたしは、執務室の暖炉の前に、いた。ヴォルフ様と、二人きり。低い卓の上には、母の形見のそろばん。
「エルナ」
薪の爆ぜる音の合間に、ヴォルフ様が、静かに、言った。
「一つだけ、聞いていいか。……いや、違うな。話したくなければ、話さなくていい。それでも、俺は、何も変わらん。先に、それだけは、言っておく」
「……なんでしょう」
「王都の、あの帳庫でだ。財務卿が、お前に問うただろう。――その知識、どこで覚えた、と」
わたしの指が、膝の上で、止まった。
「お前は、即答した。いつもどおりの、涼しい顔で。だがな、あの一瞬……お前は、遠い目をした。ほんの、瞬きの間だ。だが、俺は、見た」
(……見られていたのね。この人には、かなわない)
「あれと同じ目を、お前は、たまにする。夜中の帳簿の前で。母君の話の途中で。……エルナ。それが、もし、重い荷なら。半分、俺にも、持たせてくれないか」
わたしは、暖炉の火を、しばらく、見ていた。
胸の奥で、古い帳が、開く音がした。誰にも見せたことのない帳。わたしの帳の、最初のページ。
「ヴォルフ様。……笑わずに、聞いてくださいますか」
「笑わん」
「信じられなくても、いいんです。ただ、わたしは……嘘のない帳簿を、あなたにだけは、見せておきたい。妻になる前に。ぜんぶ」
わたしは、そろばんを、そっと、二人の間に、置いた。
「わたしの帳簿術の半分は、母から習ったものです。商家育ちの母が、嫁ぎ先でも捨てなかった、両建ての帳。……あの帳の骨組みは、確かに、母のもの。でも――もう半分は、違うんです」
火が、ぱち、と鳴った。
「わたしには……もう一つの生の、遠い記憶が、あります」
ヴォルフ様は、身じろぎもせず、聞いていた。
「ここではない、どこか。ずっとずっと、遠いところ。……わたしは、一度、別の生を、生きた気がするんです。夢のように、薄い記憶。顔も、名前も、街並みも、思い出せない。ただ――数字のことだけは、覚えている。あちらの帳簿は、もっと先まで進んでいて。税というものを、どう組み立てれば人が生きられるのか、それを、確かに知っていた。……母の帳に足りなかった、最後の一枚。あれを埋めたのは、その記憶です」
「両建ての帳を、完成させたのは」
「母と……もう一人の、わたし。二人の、合作です」
言い終えると、部屋は、静かだった。薪の音だけが、していた。
頭の隅で、冷静なわたしが、そろばんを、弾いている。正気を疑われて、当然の話。気味悪がられても、仕方のない話。最悪、婚約の解消くらいの損失は、帳簿に、見込んでおくべき――
「……そうか」
ヴォルフ様は、それだけ、言った。
それから、ふ、と息を吐いて。まっすぐに、わたしを見た。
「……どこの生まれだろうと、何の記憶があろうと、お前はお前だ。俺の財務官で、俺の妻になる人だ」
……ずるい人だ。
普段は、礼の一つも、うまく言えないくせに。こういうときにだけ、一言も、間違えないのだから。
「疑わないんですか。荒唐無稽だとか。証を見せろ、とか」
「お前の数字は、この土地を救った。子供らに飯を食わせ、逃げた者を呼び戻した。それが証だ。……出所を検める必要が、どこにある」
(ああ――この人の信じ方は、帳簿と、同じだわ)
数字が合っていれば、帳は信じられる。この人は、わたしという帳簿を、一枚も飛ばさずに読んで、それで、信じてくれている。
目の奥が、じん、と熱くなった。泣きはしなかったけれど、今夜のこれは、あの丘の上の求婚と、同じ重さで、わたしの帳に、載る。
「このことは、あなたにだけ。世間には、これからも、母の帳ということに、しておきます」
「分かっている。……墓まで、持っていく」
それから、彼は、少しためらって、一つだけ、問いを足した。
「……その、もう一人のお前は。向こうの生で、幸せだったのか」
思いもよらない問いだった。
「……分かりません。そういうことは、何も、覚えていないんです。ただ」
わたしは、胸の奥の、薄い記憶に、そっと、手を伸ばした。数字だけが残って、顔も名前も消えてしまった、遠い遠い生。
「ただ……こんなふうに、誰かに、数字ごと大事にされた覚えは、たぶん、ありません。あちらにも、こちらにも。――今夜までは」
「そうか」と、ヴォルフ様は、言った。「なら、今の生で、帳尻を合わせればいい。……倍にして、な」
わたしは、そろばんに、指を置いた。ぱちり、と一つ、玉を弾く。
わたしの帳の、最初のページ。長いあいだ、白紙のふりをしてきた一枚に、今夜、初めての読み手が、署名をしてくれた。
「ヴォルフ様。もう一つだけ、白状しても?」
「なんだ」
「……今夜の分は、わたしの人生の帳簿に、いちばん太い字で、書いておきます」
「太い字か」ヴォルフ様が、低く、笑った。「なら、俺の帳にも、同じ行を書いておこう。……逆さに、ならんように、気をつけてな」
わたしは、こらえきれずに、噴き出した。
暖炉の火が、寄り添う二つの影を、あたたかく、揺らしていた。
第51話、お読みいただきありがとうございます!
辺境に帰ってきて、いちばん静かで、いちばん大切な夜の話になりました。エルナがずっと白紙のふりをしてきた「最初のページ」。その読み手は、この世界で、ただ一人です。荒唐無稽を疑わない理由が「お前の数字は、この土地を救った。それが証だ」なところに、ヴォルフという男のぜんぶが詰まっている気がします。
次回、王都から、とんでもない布告が届きます。エルナの帳簿が――国に、盗まれます。
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