第47話:財務院へ来ないか、と卿は言った
王都の朝は、辺境より、静かに冷える。
昨夜は、遅くまで、戦いの帳をつけていた。零落した方の証言。聖女認定の献金の記録。二つを繋いだ線は、ロートヴァイン侯爵の利権の網を、ようやく一枚の絵図にし始めている。
(あと、二筋。お金の通り道と、認可の窓口。それで網の全体が見える――)
そこまで逆算して、わたしは、机の上の書状を、もう一度、開いた。
昨夜届いた、一通。封蝋は、天秤の意匠――王国財務院。もう、見慣れてしまった紋章だ。ただし今回は、文面が、短かった。
『辺境財務官エルナ・フォン・ライゼンタール。明後日正午、財務院へ来られたし。ヴァルデマール』
(……卿本人の、署名)
肩書きも、理由も、書いていない。来い、とだけ。
「行くのか」
書状を覗き込んで、ヴォルフ様が言った。
「行きます。盤の主が呼んでくださるなら、顔を見ない手はありません」
「なら、俺も行く」
即答だった。……この方も、たいがい、算段が早い。
翌日の正午。財務院。
石造りの建物は、王宮より飾りが少なく、そのぶん、威圧的だった。廊下を行く官吏たちは、誰も、無駄口を叩かない。聞こえるのは、遠くで算木の触れ合う、乾いた音だけ。
無言の案内役に通されたのは、応接の間では、なかった。
帳庫、だった。
天井まで届く棚、棚、棚。国庫の帳簿が、壁という壁を埋めている。三十年分――いいえ、もっと。国の数字が眠る、書物の山。いや、眠ってはいない。どの帳の背にも、今年の埃だけが、ない。
(……全部、生きている。誰かが、毎年、検めている)
その棚の谷間に、机がひとつ。老人が、ひとり。
「よう来たな、小娘」
財務卿ヴァルデマール。五十をいくつか超えた、白髪まじりの、小柄な人だった。豪奢でも、粗野でもない。役人の黒い袖。その指先に、筆だこと、算木の擦れた跡。
(……実務の手だわ、あれは)
「お初にお目にかかります。エルナ・フォン・ライゼンタールです」
「知っておる。辺境の決算書は、三度読んだ」
世辞の口調では、なかった。事実の口調だった。
「初の月次黒字、十二グルデン。交易の歩合、初年でおよそ八十。余剰金百二十は、治水と街道と備蓄に三分割。――違うか」
諳んじて、いた。手元に、何も見ずに。
「……一の位まで、合っています」
「当然だ。数字は、覚えるものではない。意味が分かれば、忘れられんだけだ」
(――ああ、これは。これは、わたしと同じ側の頭だ)
「賦課の検め直し。副本と受領印。査定偽装の突き合わせ。どれも、わしの部下どもには書けん手だ。褒めておるのだぞ、小娘。わしは世辞を言わん。世辞は、費えだ」
(……いま、わたしと同じ言葉を使ったわね)
「オイゲンを破り、ロートヴァインの帳場を嗅ぎまわっておるそうだな。それも、よい。あの肥えた請負どもは、いずれ帳の掃除が要る」
味方のような口ぶりで、敵の頂点が、笑いもせずに言う。
「本題を言う」
ヴァルデマールは、立ち上がった。小柄なのに、背後の帳庫ぜんぶが、彼に付き従っているように見えた。
「財務院へ来ないか、小娘。……お前の帳の腕、国のために使え。辺境には、過ぎた才だ」
引き抜き。
隣で、ヴォルフ様が、身じろぎもせずに立っている。
「この帳庫の鍵を、お前に渡す。国の数字を、根から読める場所だ。国の帳は、飢えておる。読める者が、おらんのだ。わしは三十年、独りで読んできた。……そろそろ、二人目が要る」
正当な、評価だった。
侮りも、値切りも、罠の匂いすらない。わたしの腕を、腕としてだけ見て、値をつけた人は――敵にも味方にも、この人が、初めてだった。
「辺境伯」と、卿は、初めてヴォルフ様を見た。「よい財務官を、拾ったものだな」
「……拾ったのではない。来てくれたのだ」ヴォルフ様は、低く答えた。「それに――渡さん」
「ふん。武人の帳は、単純でよい」
卿は、視線を、わたしに戻した。
「返事を聞く前に、一つだけ、聞かせよ」
目が、すっと細くなった。
「両建ての帳。あの立て方は、王都の学問所にも、教会の写本にもない。わしは三十年、国中の帳を見てきたが、あの形だけは、どこにもなかった。――その知識、どこで覚えた」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、遠くで、鳴らないそろばんの静けさを、聞いた気がした。
「……母から、教わりました」
「母。商家の出の、ヨハンナ殿か」
「よく、ご存じで」
「調べたからな」卿は、引かなかった。「だが、母君の里の商家にも、あの帳の形は伝わっておらん。……出所の帳尻が、合わんのだ」
(――この方は、危ない)
「まあ、よい」と、卿は、ふいに手を振った。「金貨の出所は問うが、知恵の出所は、使えれば問わん。――ときに、小娘。婚姻の認可が、まだ下りておらんそうだな」
(……そこまで、ご存じ)
「財務院に来れば、あの手の紙は、わしの一筆で片づく。……逆も、また然り、だがな」
逆も、また然り。
それは、値札というより、刃物の裏書きだった。買えば飾りをつける。買わなければ、同じ一筆が、逆へ走る。
「それで、返事は」
わたしは、息を、一つだけ吸った。
「お断りします。わたしの帳場は、辺境です」
即答した。
迷いは、書かない。この帳面には、最初から、その一行しかない。
ヴァルデマールは、瞬きもしなかった。ただ、値踏みの目で、わたしをもう一度だけ、上から下まで測った。
「……即答か。値も聞かずに」
「値のつかないものが、あちらにあるだけです」
「ふん」
卿は、席へ戻った。そして、一日の帳を閉じるのと同じ、静かな手つきで、言った。
「ならば、才ごと潰すまでだ」
脅しの声では、なかった。決裁の声だった。今日の頁を締めて、明日の頁をめくる。ただ、それだけの声。
「国の帳にとって、使えぬ才は費えでしかない。……次に会うときは、盤を挟むぞ、小娘」
帰り道。雪のちらつき始めた王都の通りを、ヴォルフ様と並んで歩いた。
「……断ると分かっていて、なぜ誘った」
「値踏みですよ。買えるか、買えないか。買えなければ――壊す。仕入れの吟味と、同じです」
「敵の頭目が、お前をいちばん分かっている。……そういう顔を、していたな」
その声が、少しだけ、硬い。わたしは、笑った。
「肝心なところが、お分かりになっていません。わたしの帳場が、なぜ辺境なのか。――あの立派な帳庫には、食卓の匂いが、しませんでしたから」
ヴォルフ様は、二度、瞬いて。それから、ぎこちなく笑った。
宿へ戻る角で、屋台が、栗を焼いていた。ヴォルフ様が、無言で二つ買って、一つを、わたしの手に載せた。
(……ね。帳場を選ぶ理由なんて、案外、こういうことなのよ)
熱い栗を、両手で包む。
あの帳庫の主は、三十年、独りで国の帳を読んできたと言った。二人目が要る、と。あの言葉だけは、たぶん、嘘ではなかった。……気の毒に、とは思わない。思わないけれど、忘れないでおく。独りで読む帳が、人をどこへ連れて行くのか。その答えを、わたしはこれから、あの人の帳簿で見ることになる気がする。
戦は、布告された。次の一手は、向こうから来る。
第47話、お読みいただきありがとうございます!
ついに、財務卿ヴァルデマール本人の登場です。第15話で名前だけ、第20話で影だけだった男が、帳庫の主として顔を持ちました。エルナの数字を諳んじ、腕を正当に評価する、初めての「敵」。そして値も聞かずに即答で断るエルナ。……この二人、たぶん、似すぎています。
次回、卿の報復が始まります。狙われるのは、数字と――婚約です。
ブックマーク・★評価で応援していただけると、とても励みになります!




