第46話:零落した人の、確かな証言
官庁街の朝は、灰色だった。
王宮の裏手、石造りの官署が並ぶ一角。雪かきの行き届かない路地を、写字生や小役人たちが、肩をすぼめて行き交う。夜会の絹とシャンデリアから、歩いて、ほんのわずか。同じ都とは思えない、インクと石炭の匂いのする世界。
彼の居場所は、意外なほど、簡単に知れた。零落した貴族の消息だけは、社交界の帳簿の、いちばん筆まめな頁だからだ。侯爵家の元嫡男が、いまは官署で写字の勤めを――嘲りの形で語られるその消息を、わたしは、道順として、ありがたく使わせてもらった。
その官署の廊下で、彼は、働いていた。
「――エルナ」
書類の綴りを抱えて、廊下の角で立ち止まったその人は、辺境で別れたときより、さらに痩せて、ずっと静かな目をしていた。
レオンハルト・フォン・アーレンス。……いいえ。家が潰れたいまは、ただの、レオンハルト。王都の官署で写字と綴じの仕事をする、一人の下級官吏。
「お久しぶりです、レオンハルト様」
「……その様づけは、もう、いらない。見てのとおりの身分だ」
彼は、綴りを抱え直して、少しだけ、口の端で笑った。卑屈でも、自嘲でもない、静かな笑い方だった。あの夜の、よく通る声を知っている身には、別人のようにさえ見えた。
聞けば、家が潰れたあと、彼は、残った縁者の伝手に、頼らなかったのだという。頼れる伝手が、なかったのかもしれない。どちらでも、同じことだ。彼はいま、朝に出て、夕べに帰り、自分の手で、自分のパンを稼いでいた。
「……給金を、もらったよ。生まれて初めて、自分の名前で」
彼は、それを、ただの報告のように言った。
「驚くほど、安かった。……でも、あの額の勘定だけは、私にも、できた」
官署の裏の、小さな休憩室を借りて、わたしたちは、向かい合った。小さな火鉢が一つきりの、質素な部屋だった。ヴォルフ様は、扉の脇に、黙って立っている。
わたしは、用件を、まっすぐに話した。ロートヴァイン侯爵。請負徴税。聖女認定の献金。そして――社交界の、貸し借り。
レオンハルトは、じっと、聞いていた。聞き終えて、窓の外の雪を、しばらく見た。
「……確かに、私は、その帳簿の中にいた」
彼は、言った。
「私は、帳簿を読めなかった。数字は、いまでも読めない。ここの仕事も、人の書いたものを、写すだけだ。……でも」
彼は、わたしを見た。
「誰が、誰に、頭を下げていたかは、覚えている。社交界で生きるというのは、そういうことだったから。数字の代わりに、私たちは、頭の下げ方と下げさせ方を、帳簿にしていたんだ」
「聞かせてください」
彼の証言は、驚くほど、確かだった。
どの家門が、爵位の継承で、侯爵の口利きを受けたか。どの縁組が侯爵の一声で成り、どの縁組が潰されたか。徴税の請負の割り前が、季節の贈り物の形で、どの屋敷に届いていたか。夜会の席次が、貸し借りの序列と、どう重なっていたか。
「請負の割り前には、順番があった。侯爵の覚えのめでたい家から、順に、実入りのいい徴税権が回る。順番を上げたければ、頭を下げるか、金を積むか、娘を、嫁がせるか。……私の父は、三つとも、やった」
日付は、曖昧だった。金額は、一つも出てこなかった。けれど、人の名前と、頭の下がった向きだけは、一つも揺れなかった。
「ミレーユの認定も、そうだ」
彼は、声を少しだけ、落とした。
「あれは、侯爵の、お声がかりだった。父が、頭を下げに行った。……献金は、神殿にではなく、侯爵家の指定する窓口に納めた。届けたのは、この私だ。書き付けは残すな、と言われた。――エルナ。お前の帳簿に、宛先を書かせなかったのは、私だ」
宙に浮いていた三百グルデンの一行が、これで、両側から着地した。出所と、受け手。払った側の記憶と、わたしの帳簿。
「……その証言を、文書にしていただけますか。署名つきで」
「零落した男の証言だ。どれほどの重さがあるか」
「あります」
わたしは、言った。
「帳簿が読めなくても、正しく覚えている人の言葉は、正しくつけられた一行と、同じ重さです。零落は、記憶の価値を下げません」
レオンハルトは、目を、少し見開いた。それから、うつむいて、ひとつ、息を吐いた。
「……エルナ。一つだけ、言わせてくれ。あの夜のことは――重ねて、すまなかった」
一言、だった。それ以上、彼は言葉を並べなかった。
「その頁は、もう、締めましたから」
わたしも、一言で、受けた。それで、十分だった。締めた帳簿を開き直すのは、良い会計ではない。
(長い詫びは、詫びる側の帳尻あわせ。短い詫びだけが、相手のためのものになる。……この人は、零落して、ようやく、それを覚えたのね)
彼は、ペンを取った。写字生の、整った手つきで、自分の記憶を一行ずつ、文書に起こしはじめた。数字のない、けれど確かな、もう一冊の帳簿を。
書き終えると、彼は、インクを乾かし、署名の脇に、官署で覚えたのだろう、几帳面な日付を添えた。
「……役に立つなら、使ってくれ。私が社交界から持ち出せた、たぶん、唯一の財産だ」
その夜、宿の机で、わたしは、すべてを並べた。
ハーゲン殿の講義の覚え書き。実家から運んできた、十年分の帳簿の写し。アーレンス家の、宙に浮いていた献金の一行。そして、レオンハルトの、署名入りの証言。
紙の上に、線を引いていく。献金の流れ。請負の割り前の流れ。頭の下がった向き。……線は、辺境の執務室で王国地図に引いたあの線と、同じ形に、収束していった。ロートヴァイン侯爵。社交界という帳簿の、貸す側の主。
「――これで、詰みか」
ヴォルフ様が、紙面を覗き込んだ。
「いいえ、まだ。輪郭が出ただけです。検分の場に持ち込むには、骨組みに、数字の肉が要ります。実家の十年分の写しと、請負側の申告を、突き合わせられる場が」
「そんな場が、あるのか」
「作るんです。なければ」
そのとき、扉が、叩かれた。
宿の主人が、恭しく、封書を捧げ持っていた。
上質の紙。見覚えのある、天秤の封蝋。――王国財務院。
『辺境財務官エルナ・フォン・ライゼンタール。明後日正午、財務院へ来られたし。ヴァルデマール』
わたしは、その短い文面を、二度、読んだ。
差出の署名は、代筆ではなかった。癖の強い、力のある筆跡。三十年、国の帳簿を書き続けてきたという手の、字。
「……呼びつけか。狙いは、なんだ」
「分かりません。ただ、一つだけ、確かなことがあります」
わたしは、封書を、証言の綴りの隣に、そっと置いた。
「向こうから、会いたいと言ってきた。――つまり、わたしたちの動きは、もう、あちらの帳簿に、載っているということです」
(……盤の、いちばん奥の手が、動いた)
査察官オイゲンの、主。特別賦課の絵図の、そのまた向こう。この国の帳尻を握り続けてきた人が、初めて、盤の上に自分の駒を、進めてきた。
どんな顔で、どんな声で、何を言う人なのか。――明後日、分かる。
窓の外で、雪が、音もなく降り続いていた。
第46話、お読みいただきありがとうございます!
零落したレオンハルトの、再登場でした。「帳簿は読めなかった。でも、誰が誰に頭を下げていたかは、覚えている」――いまの彼にしかできない証言を、彼は静かに引き受けてくれました。謝罪は一言だけ、受けるのも一言だけ。締めた帳簿は開き直さないのが、二人の流儀です。
そして最後に、天秤の封蝋。次回、ついに――財務卿ヴァルデマール、本人が登場します。第1部から影だけを落とし続けてきた男と、エルナの、初対面です。
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