第45話:聖女の献金、出所不明
王宮の冬の夜会は、シャンデリアの光まで、一年前と同じ色をしていた。
大広間に、絹と、香水と、囁き声。招待の名簿の上で、わたしは「グラウフェルト辺境伯の婚約者」となっている。婚姻認可の根回し――つまりは敵情の検分に、わたしたちは、この光の中へ出てきた。
「ご覧になって。あれが、例の」
「帳簿の令嬢……ほら、アーレンスの、婚約破棄の」
「まあ。辺境で、徴税のお仕事を? まあ」
扇の陰の囁きは、一年前と、寸分違わぬ音がした。
(懐かしいこと。この広間の耳の早さだけは、王国一だわ)
違うのは、わたしの隣に、山のような人がいることだった。
正装のヴォルフ様は、笑いもせず、睨みもせず、ただ、わたしの半歩後ろに立っている。囁きが近づくたび、彼が、静かに、そちらへ顔を向ける。それだけで、囁きは、潮が引くように、遠ざかっていった。
(……頼もしい、とは、いまは言わないでおきましょう。癖になりそうだから)
根回しの首尾は、はかばかしくなかった。
認可の件で、と切り出すと、どの貴族も、判で押したように、同じ振る舞いをした。にこやかに、天気の話へ。狩りの話へ。決して、認可の話へは、戻らない。
(……見事なものね。誰も『駄目だ』とは言わない。ただ、誰も『はい』と言える立場にない、という顔をする)
断られてすら、いないのに、道が全部ふさがっている。書式のある戦いなら、不受理の印一つで済むものを、この広間では、笑顔の数だけ、壁がある。
「おお。これは、これは」
人垣が割れて、その人は、現れた。
ギスベルト・フォン・ロートヴァイン侯爵。
六十がらみの、恰幅のよい紳士だった。仕立てのよい礼服。鷹揚な笑顔。孫を見るような、柔らかい目。声は大きくないのに、広間の隅まで、よく届く。
「噂に高い、金勘定の令嬢殿か」
侯爵は、にこにこと、笑った。
「はしたないことだ。淑女が、帳簿の話などとは」
悪意の欠片も見せない声で、その言葉は、放たれた。
(……なるほど。これが、この方の型)
バルトロトは、怒鳴った。ローデリヒは、嗤った。オイゲンは、何もしなかった。そしてこの方は――孫を諭すように、人を貶める。
「お初にお目にかかります、侯爵様。エルナ・フォン・ライゼンタールと申します。本日は、婚姻認可の件で、皆様にご挨拶に上がりました」
「ああ、認可。認可ねえ。書類のことは、わしには、とんと分からん」
認可の裁可の筋を握る当の人が、書類は分からない、と笑う。
「辺境では、ずいぶんと、勇ましくなさったそうだな。査察のやり直しを、求められたとか」
「検め直しは、領に認められた、正規の手続きですわ」
「そうとも、そうとも。正規の手続き。……だがな、令嬢殿。手続きで、人の心は買えん。この王都でものを言うのは、規程の条文ではなく、品位と、信望だよ」
「品位と、信望」
「さよう。そして、金勘定を口にする者にはな――どちらも、集まらん」
数字の話を、一度も数字で受けず、そのたびに、品性の秤へ、載せ替える。
「それより、令嬢殿。今宵は、もう踊られたかな」
「いいえ、まだ」
「ほう。……ほう」
侯爵は、それはそれは、という顔で、取り巻きたちと目を交わした。それだけで、扇の陰に、さざ波が走る。数字の話をひとことも交わさぬまま、「あの娘は淑女ではない」という帳が、この広間のどこかで、また一行、書き足された。
(お上手だこと。この方の土俵では、数字は一枚も通らない。……議論をしては駄目。この広間そのものが、この方の帳簿なんだから)
取り巻きの一人が、酔いにまかせて、一歩、踏み込んできた。
「しかし、辺境伯どのも物好きなことだ。数字をこねる細腕を、わざわざ北の果てまで――」
ヴォルフ様が、動いた。
何も、言わなかった。ただ、半歩、わたしの前に出て、その男を、見た。灰の境で魔物を見る目と、たぶん、同じ目で。
男の言葉は、続かなかった。杯を持ったまま後退り、人垣に、消えた。
「これは失敬。武辺の御仁は、酒の座興がお嫌いと見える」
侯爵だけが、変わらぬ笑顔で、その場を綺麗に畳んだ。畳みながら、その目が、初めて、値踏みの色で、わたしたち二人を、すっと撫でた。
そのときだった。
「侯爵様。聖女様が、お見えですわ」
人垣の向こうから、白い祭服が、現れた。
ミレーユ・ロンバール。……一年ぶりの「聖女様」は、少し、痩せていた。ロートヴァイン侯爵の傍らに招き寄せられ、飾り物のように、微笑んで立つ。その微笑みは、夜会の間、一度も崩れなかった。崩し方を、忘れてしまった人の顔だった。
一瞬だけ、ミレーユの目が、わたしを見た。
一年前、婚約破棄の夜会で、勝ち誇っていた目。いまは、その奥に、値踏みされる側の疲れが、沈んでいた。聖女の箔は、あの夜、彼女の武器だった。いまは――誰かの飾り棚の、商品札に見える。
わたしは、目礼だけを、返した。
「聖女様のご認定も、侯爵様のお声がかりでしたものねえ」
取り巻きの誰かが、誇らしげに言った。
(――お声がかり)
その一言が、わたしの頭の中で、古い帳簿の頁を、めくった。
アーレンス家の帳。わたしがつけていた、あの帳。聖女認定の少し前、「献金」の名目で、三百グルデンが出ていた。宛先の欄を、わたしは埋められなかった。レオンハルトが、書かなくていい、と言ったから。行き先のない三百グルデンは、わたしの帳簿人生で数少ない、宙に浮いたままの一行だった。
献金。名目の中で、いちばん便利な言葉。何の対価なのか、書かなくていいから。
その献金の頃に認定された聖女が、いま、目の前で、「お声がかり」の主の隣に、飾られている。
(……宙に浮いていた一行が、いま、着地したわ)
出所を書けないお金は、いつか必ず、行き先のほうで、正体を明かす。
わたしは、扇の内で、そっと息を整えた。
(この方の帳簿は、紙ではない。この社交界そのもの。頁は人の顔で、書かれているのは、貸しと、借り。……なら、必ずあるはず。帳簿に載せない貸し借りほど、人は、几帳面に覚えているものだから)
誰が、誰に、頭を下げていたか。
それを、内側から見ていて――いまは、外側にいる人。
(……一人だけ、心当たりが、あるわね)
夜会の帰りの馬車で、わたしは、ヴォルフ様に言った。
「明日、会いに行きたい人が、います」
「誰だ」
「零落して、社交界の外へ出た人です。内側にいた頃は、帳簿が読めなかった。でも、外へ出たいまなら――あの広間の貸し借りが、いちばんよく見えているはずの人」
ヴォルフ様は、しばらく黙って、それから、察した顔をした。
「……会って、平気なのか」
「ええ。とっくに、締めた頁ですから」
「……そうか」
「心配して、くださるんですか」
「当然だろう」
ヴォルフ様は、窓の外を見たまま、言った。
「お前の古い帳簿は、お前を、ずいぶん安く値付けした連中のものだ。……思い出させるだけでも、腹が立つ」
「あら。でも、ご安心ください。いまのわたしは、おかげさまで――ずいぶんな、高値ですから」
(……いまの心配りも、あとで覚えの帳に、一行。この旅に出てから、あの頁ばかり増えていくのよね)
雪の王都を、馬車が行く。窓の外を、夜会の灯りが、流れて消えた。
第45話、お読みいただきありがとうございます!
数字の話を、品性の話にすり替える――ロートヴァイン侯爵は、帳簿がまったく通じない場所で戦う相手です。怒鳴りも嗤いもせず、にこにこと人を貶める。第2部後半の敵は、こういう型です。
そして、一年ぶりのミレーユ。宙に浮いていた「献金三百グルデン」の一行が、ようやく着地しました。社交界という帳簿の、貸し借りを覚えている人――エルナの心当たりが誰なのかは、もう、お分かりですね。次回、あの人が再登場します。
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