第44話:十年分の帳尻
ライゼンタール邸の応接間は、記憶より、狭く見えた。
いいえ――狭くなったのだ。壁から、絵画が消えている。日焼けの跡だけが、四角く残っていた。飾り棚の銀器は、半分になっている。出てきたのは、老いた家令と、見覚えのない小間使いが一人、それきりだった。
(売れるものから、売ったのね。帳簿を開く前から、査定が始まってしまうわ)
「――よく戻った、エルナ」
父、ユストゥス・フォン・ライゼンタール伯爵は、暖炉の前に、立っていた。
一年ぶりに見る父は、老けていた。けれど、声の型は、昔のままだった。命令の、型。
「手紙は読んだ。査定などと、回りくどいことを。まあいい、話が早い。――戻って、この家を立て直せ。お前には、それができるのだろう。辺境でやったことを、この家でやればいい」
隣で、ヴォルフ様が、わずかに動きかけた。わたしは、目だけで、それを制した。
(大丈夫。この型は、もう、効かないの)
「お断りします」
「……なに?」
「わたしは、グラウフェルトの財務官です。この家には、手紙に書いたとおり、査定に参りました。――帳簿を、拝見します」
「お義母様は」と、わたしは一応、尋ねた。
「奥は……伏せっている」
家令が、目を落とした。誰も、それ以上は語らなかった。それでいい。今日の用は、あの人ではない。
書庫は、屋敷の北側の、火の気のない一室だった。
扉を開けると、埃と、古い紙の匂いがした。壁の棚に、帳簿が並んでいる。年ごとに束ねられて、十年分。
わたしは、いちばん古い綴りを、抜き出した。稚拙な、けれど必死に整えられた、細い字。
「お父様。この帳を、開いたことは、おありですか」
「……帳簿など、家令に任せてある」
その家令が、深く、頭を下げた。
「旦那様。……申し上げねばなりません。わたくしは、帳簿を束ねて、棚に納めていただけでございます。中身をつけておられたのは――ずっと、お嬢様で」
父が、怪訝な顔で、わたしの手元を、覗き込んだ。
頁を、めくる。仕入れの帳。給金の帳。領地の上がりの帳。王国へ納めた、税の帳。年が進むごとに、字は迷いを失い、行は締まり、頁の隅の検算の跡まで、整っていく。
十年分。最初の頁から、最後の頁まで、ぜんぶ、同じ筆跡。
わたしの、字。
覚えている。最初の頁を書いた夜のこと。母の葬儀のあと、家令が途方に暮れていた、支払いの束。十一のわたしは、母の帳簿の書き方を思い出しながら、震える字で、日付を書いた。誰かに頼まれたのでは、なかった。ただ、母の残した帳簿が、荒れていくのが、嫌だったのだ。
「…………この帳を」
父の声が、掠れた。
「お前が……?」
「十一の歳からです。お母様が亡くなって、帳が荒れていましたから。誰かがつけなければ、家は、回りません」
父は、帳簿の山を見た。それから、わたしを見た。もう一度、帳簿を見た。
言葉は、出てこなかった。命令の型しか知らなかった人の喉から、命令が、出てこなかった。
「馬鹿な……給金の払いも、税の納めも、滞りなど、一度も……いや」
父は、額に手を当てた。思い出そうとしている。娘が、夜会のたびに早く帰りたがったこと。嫁入り支度の相談より、帳簿の紙の注文を先にしたこと。地味で、扱いにくい、と切って捨ててきた、その一つひとつの、意味を。
「……アーレンスの家が、半年で傾いた。あれも、では」
「あちらの帳簿も、わたしがつけていました。婚約者の務めの、ついでに。わたしという栓が抜ければ、水は漏れます。――あの夜、申し上げたとおりに。強がりでは、なかったんですよ、お父様」
地味な娘。扱いにくい娘。華のない娘。
そう呼ばれ続けた娘の細い字が、この家の底を、十年間、支えていた。その事実だけが、いま、埃っぽい書庫の棚から、十年分の重さで、父を見下ろしている。
父は、立ち尽くしていた。叱ることも、命じることも、忘れた顔で。
わたしは、そろばんを、出した。
「査定を、始めます」
半日をかけて、わたしは、この家の現状を検めた。負債、締めて千五百グルデン。利子は年々、元金を太らせている。領地の上がりは、管理の荒れで、三年前の七割。そして、支出の帳の、決裁の欄。穴の開いた箇所には、必ず、同じ署名があった。当主の、署名。
査定の間、父は、部屋の隅の椅子から、動かなかった。時折、口を開きかけては、閉じた。命令も、言い訳も、この部屋では通らないと、分かりはじめた人の沈黙だった。
夕刻、応接間で、わたしは、結果を告げた。
「数字の上では、道はあります。領地の管理を立て直し、利の高い借金を組み替え、屋敷を縮めて――七年。それで、負債は消せます」
父の顔に、わずかに、光が差した。
わたしは、静かに、続けた。
「ですが、その七年の計画には、条件があります。決裁のたびに穴を開けてきた方が、決裁の席に、座り続けないこと。……ですから、査定の結論を、申し上げます」
息を、一つ。
「ライゼンタール伯爵家は、現状の当主のままでは――黒字に、できません」
父は、怒鳴らなかった。
怒鳴りかけて、息を吸って、そのまま、椅子に腰を落とした。一年前なら「親に向かって」と声を荒げたはずの人が、いまは、ただ、自分の署名の並んだ帳簿を、見ていた。
数字の意味が、分かったのだ。読めないなりに。自分の家の帳簿を、初めて、まっすぐに。
「……どうすれば、いい」
「ご隠居ください。家督の整理と、七年の道筋は、書き付けにして置いていきます。歩くかどうかは、この家が決めることです」
「隠居……わしに、隠居しろと」
「ええ。人は、家の資産にも、費えにもなります。……いまのお父様は、この家の、いちばん大きな費えなんです」
父は、何かを言いかけて――言わなかった。数字は、反論を受けつけない。受けつけないと分かる程度には、この半日で、父は、帳簿というものを知ったのだった。
わたしは、立ち上がって、最後の一つを、告げた。
「それから、いただきたいものが、あります。あの書庫の帳簿の――十年分の、写しを」
「……あんな、恥の記録を、何にする」
「恥では、ありません」
わたしは、言った。
「あれは、納めた側が十年、正しくつけ続けた記録です。いまのこの国で、いちばん強い証拠になる。……この家の帳尻ではなく、国の帳尻を合わせるために、使います」
父は、長いこと、黙っていた。
それから、ゆっくりと立ち上がり、書庫の鍵を、わたしの前に、置いた。
「……持って、いってくれ」
その頭が、わずかに――けれど、確かに、下がった。
わたしに向かって。生まれて、初めて。
(和解では、ないわ。これは、清算)
帳尻を合わせるというのは、ごまかすことではない。貸しも借りも、なかったことにせず、あるがままに、合わせ切ること。この家とわたしの間の数字は、今日、初めて、嘘のない形で締まった。ただ、それだけのこと。それだけのことに、十年と、婚約破棄が一度、要ったのだ。
門を出ると、雪が、降りはじめていた。
ヴォルフ様が、肩に雪を積もらせて、待っていた。査定の間じゅう、ひとことも口を挟まず、ただ、そこにいてくれた人。
「……終わったか」
「終わりました。十年分」
「そうか」
それだけ言って、彼は、自分の外套を脱いで、わたしの肩に、掛けた。
「……親父どのは、どうだった」
「絶句なさっていました。十年分、まとめて」
「……そうか。まあ、当然だな。俺は、一冊目で絶句したぞ」
わたしは、小さく吹き出した。雪の路地に、白い息が、二つ、並んで浮かぶ。
大きな外套は、温かかった。わたしは、その前を、そっと合わせた。
(……ええ。こういうものは、ぜんぶ、覚えの帳につけておくの)
第44話、お読みいただきありがとうございます!
十年分の帳簿は、ぜんぶ、娘の筆跡だった――第1話からずっと張ってきた糸を、ようやく、父本人に突きつける回でした。「この家、半年で潰れますよ」は、強がりでも負け惜しみでもなく、家を支えてきた者の事実だった。それを父が知る瞬間を、丁寧に書きたかったのです。
和解ではなく、清算。それでも、初めて頭を下げて鍵を渡した父のひと下げが、あの家の帳簿の、初めての正直な一行なのかもしれません。次回、舞台は華やかな夜会へ。第2部後半の敵、ロートヴァイン侯爵と初対面です。
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