第43話:王都までの旅費も、経費です
旅の帳面というものは、つけていると、その旅の顔が見えてくる。
王都までの、八日間。わたしの帳面の最初の頁は、こんな具合だった。
一日目。宿代、二人と護衛の分。飼い葉、馬の頭数分。夕餉に、街道の茶屋で、温かい麦粥。締めて、いくら。
「エルナ。それも、つけるのか」
向かいの席で、ヴォルフ様が、あきれ半分の顔をした。
「当然です。この旅は、領の公務ですから。旅費も、立派な領の費えです。一枚、一枚、後から検められるように」
「麦粥、一杯までか」
「麦粥一杯まで、です。費えというのは、大きな無駄より、小さな『まあいいか』から漏れていくものなんですよ」
旅程の帳、という言い方を、わたしは母から教わった。旅は、出た日から帰る日まで、ぜんぶで一つの買い物。宿も、飼い葉も、渡しの舟賃も、一冊に並べて、初めて「この旅は、いくらの旅だったか」が言える。
「つまり、あとで、この旅の値段が分かるのか」
「ええ。値段が分かれば、次の旅は、もっと上手に組めます」
二日目の夜は、街道沿いの宿で、護衛の兵たちと、同じ卓を囲んだ。
夕餉は、豆の煮込みと、黒パンと、薄い麦酒。辺境の食卓より、ずっと質素だ。けれど、兵たちは、領主と財務官と同じ卓で、遠慮なく、お代わりをする。
「財務官様。この宿、隣町の宿より、二割は高いですぜ」
「あら、よく気づいたわね」
「そりゃあ、俺たちも、玉っころ教室の端っこで、聞いてますから」
領の兵まで、値札を読むようになった。わたしは、笑って、帳面に書き足した。宿代、相場より二割高。ただし、厩に夜番がつく分、荷の見張りの人手が浮く。差し引き、損はない。
「……というわけで、この宿で、正解です」
「へえ! 高いほうが正解ってことも、あるんですなあ」
「ええ。値札は、読むだけでは足りません。並べて、比べて、初めて意味が出るんです」
何が浮いて、何がつくか。
三日目の市場町で、ヴォルフ様が、屋台の焼き栗を買った。
紙包みを、無言で、わたしの膝に置く。湯気の立つ、焼きたての栗。
「……これは、帳面のどちらに書きましょう。領の費え? それとも」
「……俺の、財布だ」
「あら」
わたしは、栗を一つ、剥いた。甘くて、熱かった。
「では、帳面には載せません。――代わりに、別の帳に、つけておきますね」
「別の帳?」
「わたしの、覚えの帳です。貸し借りではなく、いただいたものだけを書いておく頁。……けっこう、増えてきたんですよ、この一年で」
「……増えて、困るか」
「いいえ。この帳だけは、いくら増えても、重くなりませんから」
ヴォルフ様は、目を逸らして、窓の外の冬空を見た。耳が、少し、赤かった。
(本当に、この方は。魔物と戦うより、栗を渡すほうが、勇気が要るんだから)
道は、南へ、南へ。
五日目のあたりから、雪が、ちらつきはじめた。景色に、見覚えが出てくる。一年前――婚約破棄の夜の少しあと、わたしは、この道を、逆向きに揺られていった。
あのときの馬車は、寒かった。毛布は薄く、供の者はなく、窓の外を流れる景色は、どこまでも、わたしを運び捨てにいく道に、見えた。
同じ道を、いま、逆に走っている。
膝には、温かい毛布。手元には、旅の帳。隣には、腕組みのまま眠ったふりをする、番犬のような護衛がひとり。
(……道そのものは、何も変わっていないのよね。変わったのは、わたしの帳簿のほう)
その夜、宿の廊下で、ヴォルフ様が、ぽつりと訊いた。
「……王都は、嫌ではないのか。お前を、捨てた場所だろう」
わたしは、少し、考えた。
「好きでは、ありません。でも、怖くもないんです。あの頃のわたしは、王都の値付けを、そのまま信じていました。華がない、価値がない、という値札を。……いまは、自分の帳簿を持っていますから。自分の値付けは、自分でします」
「……そうか」
ヴォルフ様は、うなずいて、それから、ぶっきらぼうに、付け足した。
「値札なら、俺がとっくに、付け直してある。……この世で、いちばん高い」
「……っ」
不意打ちは、ずるい。わたしは、覚えの帳に、また一行、増やすはめになった。
七日目の夜には、遠くに、王都の空の明かりが見えた。街の灯りが、雪雲の腹を、うっすらと橙に染めている。あの明るさも、誰かの払う費えなのだと思うと、少しだけ、帳簿の目が疼いた。
八日目の午後、王都の門が、見えた。
灰色の空の下、都は、一年前と同じに、大きく、華やかだった。門をくぐれば、石畳の大通り。絹をまとった貴婦人の馬車。飾り窓の並ぶ商店。行き交う、人、人、人。
けれど。
(……あら)
一年前のわたしには見えなかったものが、いまのわたしには、見えた。
大通りの一本裏の橋は、欄干が欠けたまま、修繕予定の札だけが、古びている。閉まったままの商店が、二軒、三軒。市場の値札は、辺境の倍。パンの値まで、上がっている。そして、辻の掲示板には、納税の督促の布告が、真新しい紙で、貼り重ねられていた。
市場の角では、税吏が、店主と揉めていた。売り上げの帳を検めさせろ、いや、先月も検めたはずだ――。周りの店は、みな、目を伏せて、素知らぬ顔をしている。あの目の伏せ方を、わたしは、知っている。一年前の、辺境の村の目だ。
表通りの絹と、裏通りの督促。
「……どうした」
「ヴォルフ様。この都、着飾ってはいますけれど――財布の中は、火の車です」
入りが足りていない。足りないから、取り立てが強くなる。取り立てが強いから、商いが閉じる。商いが閉じるから、また入りが減る。あの痩せた辺境で、わたしが最初に断ち切った、その悪い車輪が――この華やかな都では、豪奢な布をかぶって、回り続けている。
「王都とは、もっと、豊かなものかと思っていた」
「豊かに、見せているんです。見栄えは、いちばん高くつく費えですから」
(国の帳簿は、いったい、どうなっているのかしら。……歳入と歳出の帳を、並べて見たいものだわ。たぶん、誰も見せてくれないでしょうけど)
夕暮れ、わたしたちの馬車は、貴族街の外れで、停まった。
雪のちらつく通りの先に、見覚えのある門があった。ライゼンタール伯爵家。わたしが生まれて、育って、そして、捨てられた家。
門灯は、半分しか、点いていなかった。庭木は、手入れの人手を失ったまま、冬の形で、伸び放題になっている。実家には、早馬の手紙が、五日前に着いているはずだった。返事は、来ていない。……まあ、いい。査定に、先方の同意は要らない。数字は、あるものを、あるがままに検めるだけだから。
わたしは、馬車を降りて、その門を、見上げた。
胸に去来するものが、ないわけではない。けれど、それを数えるのは、今日の仕事ではない。
隣に、ヴォルフ様が、並んだ。何も言わずに、ただ、半歩後ろに。
わたしは、旅の帳面を閉じて、胸元の、そろばんの位置を直した。
(ただいま、とは、言わない)
息を、一つ。白い息が、夜気に溶けていく。
(――検めに来ました、と、言うのよ)
第43話、お読みいただきありがとうございます!
道中の軽い回でした。焼き栗は、領の費えではなく、ヴォルフ様の財布から。そして、一年前に捨てられて下った道を、今度は自分の意志で、隣に人のいる馬車で戻る――道は同じでも、エルナの帳簿は、確かに変わりました。
さて、次回はいよいよ、実家との対峙です。「ただいま」ではなく、「検めに来ました」。十年分の帳尻を、合わせに行きます。
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