第42話:実家の帳簿は、わたしの筆跡でした
王都行きの支度は、三日で整った。
冬着に、旅の食料、街道の通行の手形。護衛の人選は、ヴォルフ様が自ら検めた。わたしの荷物は、相変わらず少ない。帳面の束と、筆記の道具と、母のそろばん。それだけでは、革鞄一つの半分も、埋まらない。
(王都を出た日も、こんな荷物だったわね。ドレス二着と、母さんの形見だけ)
あのときと違うのは、机の上に、書きかけの手紙が一通、あることだった。
宛先は、ライゼンタール伯爵家。――わたしの、実家。
先だって届いた、父からの手紙。わたしは、返事を保留したまま、オイゲンとの戦いに集中していた。王都へ行くのなら、もう、先送りはできない。
父の手紙は、三度、読み返すまでもない代物だった。家計が思わしくない。使用人にも、暇を出したらしい。ついては、お前も伯爵家の娘なら、家の役に立て。……娘の近況を問う一行も、詫びの一言も、なかった。命令の書式で書かれた、無心。
(お父様は、手紙まで、決裁の書類みたいに書くのね)
夜、執務室で、わたしは、便箋に向かった。
インクを含ませて、最初の一文を、書く。
『援助のご依頼には、応じかねます』
まず、結論。数字の文書の作法だ。
『代わりに、近く王都へ参りますので、貴家の帳簿を、査定いたします。援助の可否も、その方法も、すべては査定の後に。数字を見ないままお約束できることは、何もありません』
……われながら、かわいくない娘だと思う。
けれど、これが、わたしのやり方だ。情で助ければ、あの家は、同じ穴をまた開ける。恨みで拒めば、わたしが、数字を曲げたことになる。診てから、決める。レオンハルトのときと、同じように。
署名をして、ペンを置きかけて――わたしは、ふと、手を止めた。
あの家の、帳簿。
(……そういえば、あれは、ぜんぶ、わたしの字だわ)
十一の歳から、わたしは、あの家の帳簿をつけていた。
母が亡くなって、家計の帳が荒れ放題になっていたのを、見かねて拾ったのが、始まりだった。父は帳簿を見ない人で、継母様は数字がお嫌いで。誰にも頼まれず、誰にも気づかれず、わたしは、つけ続けた。仕入れの帳。給金の帳。領地からの上がりの帳。そして――王国へ、納めた税の帳。
夜会から帰った深夜、ドレスのまま、蝋燭一本で、その日の支払いを写した。継母様のドレスの仕立て代。父の狩りの費え。宛先も告げられない、付き合いの祝い金。数字を書いている間だけ、あの家の中に、わたしの居場所があった。……いいえ。居場所だと、思い込もうとしていた。
十年分。あの家の書庫の棚に、わたしの筆跡だけで埋まった帳簿が、眠っている。
ずっと、それを、恥のように思っていた。社交も踊りも身につけず、帳簿ばかりつけていた娘。「華がない」と言われた、その証拠の山。帳簿をつけても、誰も褒めなかった。夜会で踊れないことだけが、数えられた。あの家でのわたしの十年は、帳簿の外では、なかったことになっていた。
けれど。
わたしは、ゆっくりと、顔を上げた。
(……待って。あれは、武器になる)
請負徴税の中抜きは、取り立てた額と、国庫へ納めた額の、差額に隠れている。請負側の帳簿は、侯爵の手の内にあって、検めようがない。でも――納めた側が、正しくつけ続けた記録が、あったなら。
同じお金は、二つの帳簿に、跡を残す。受け取った側の帳簿の嘘は、払った側の帳簿で、割れるのだ。
ライゼンタール家は、王都近郊に領地を持つ、伯爵家。十年分の、納めた側の記録。それも、一グルデンも狂いなく。なにしろ、つけたのは、わたしだ。
(請負側が『これだけしか取れなかった』と国庫に申告した年に、実際には、いくら取り立てていたか。あの棚の帳簿は、それを、十年分、言える)
外から突き合わせのきく、正しい対照記録。この国に、いくつも残っているとは思えない代物。あの十年は、恥ではなかった。
わたしは、便箋に、一行を書き足した。
『つきましては、貴家の帳簿の保全をお願いいたします。書庫のものは、一冊も、処分なさいませんように』
手紙は、翌朝いちばんの早馬に、託した。わたしたちより、五日は先に着く。
昼、わたしは、ヴォルフ様に、帳簿のことを話した。
「十年分の、対照記録……。つまり、なんだ。お前は、十一の歳から、この戦の支度をしていたことになるのか」
「……そういう、格好のいいものでは、ありませんけれど」
「格好は、いい」
ヴォルフ様は、短く言った。
「誰にも見られていない場所で、十年、手を抜かなかった。……そういうのを、俺の里では、武人の稽古と呼ぶ」
武人の稽古。わたしの十年に、そんな名前をくれた人は、初めてだった。
出立の朝は、よく晴れた。
晩秋の門前に、見送りの人垣ができていた。マルタが、村の女たちと、旅の食料を山ほど、馬車に積み込んでいる。
「王都のやつらに、なめられるんじゃないよ、財務官様」
「ええ。うちの帳簿は、王都の絹より上等ですから」
ギードは、留守居役だ。老副官は、仏頂面のまま、ヴォルフ様に何ごとかを言い含め、それから、わたしには、一言だけ。
「……行ってこい。先代の無念の、続きだ」
そして、ニコと、村の子たち。この秋から、そろばんと帳付けを習いはじめた、わたしの弟子たちが、そろって胸を張って、並んでいた。
「ニコ。留守のあいだの、日々の帳は、あなたたちに任せます」
「……おいらたちだけで、か?」
「ええ。つけ方も、写しの取り方も、教えたとおりに。分からないことがあったら、分からないと、帳面に書いておくこと。ごまかして埋めるのが、いちばんの禁じ手です」
ニコは、ごくりと息を呑んで、それから、懐から、一冊の帳面を引っぱり出した。
「見てくれよ、お姉ちゃん。留守帳、もう作ったんだ」
拙い字で「るすちょう」と書かれた表紙。開くと、最初の頁に、日付と天気の欄まで、線が引いてある。
「……上出来です。頁の隅に、検算の場所も作っておきなさい」
「へへ。玉っころも、毎日鳴らすからな! 行ってらっしゃい、お姉ちゃん! 帳簿は、おいらたちが守るから!」
出立の間際、ヴォルフ様が、館を振り返った。
「……この領を留守にするのは、初めてだな」
「ええ。でも、大丈夫です。帳簿の読める子たちが、育っていますから」
「そうだな。……お前が、育てたんだ」
馬車が、動き出す。
門の向こうで、人垣が、いつまでも手を振っていた。たった一人で、捨てられるように出てきた王都へ。今度は、これだけのものに見送られて、自分の意志で、向かう。
車窓から、灰の境の山並みが、遠ざかっていく。初めて来た日、あの山は、流刑地の壁のように見えた。いまは、帰る場所の目印に、見える。
「……八日の道のりだ。長いぞ」
「ええ。ですから、道中の費えの帳を、つけながら参りましょう」
「……お前は、馬車の中でも財務官か」
「あら。わたしは、どこにいても財務官です」
晩秋の街道を、馬車は、南へ。
実家へは、あの手紙が、一足先に着く。十年分の帳簿への――迎えの一通が、いまごろ、王都への街道を、駆けている。
第42話、お読みいただきありがとうございます!
「華がない」の証拠の山だと思っていた十年分の帳簿が、実は、国と戦うための最強の武器だった――エルナの「無駄だった十年」が、意味を変えはじめる回でした。そして、ニコたち弟子に、初めての留守番です。帳簿は、おいらたちが守る!
次回は、王都までの八日間の道中記。焼き栗と旅の帳をお供に、少しだけ、ゆっくり参ります。
ブックマーク・★評価、いつも本当に励みになっています!




