第38話:押収するなら、写しをどうぞ
「帳簿の原本を、押収します」
その通告は、検め直しの審を待つばかりとなった、ある朝に来た。
オイゲンは、いつもの声で、通告書を読み上げた。
「検め直しの審に供する証拠の保全のため、領の主帳簿、徴税台帳、および決算の根拠となる受け払いの記録の原本を、財務院が保管します。搬出は、本日の午後」
執務室の空気が、凍った。
「……おい、待て」
ギードの声が、割れた。
「帳簿は、この領の背骨じゃぞ。それを、根こそぎ持っていくじゃと?」
「規程に基づく、適法な保全です」
(……なるほど、ね)
わたしは、内心で、この一手の狙いを、算盤に置いた。
検め直しの審で、わたしの武器になるのは、帳簿だけだ。三年分の、正直な数字。それを、審の前に、そっくり向こうの蔵へ引き上げてしまう。「保全」という、立派な名目で。
帳簿のない財務官は、剣のない剣士だ。審の場で、わたしは、口だけで戦うことになる。
(それだけなら、まだいい。もっと嫌な読み筋もある。……向こうの蔵に入った帳簿が、審の日まで一頁も欠けずにいる保証は、どこにもない)
「財務官様!」
ギードが、わたしを見た。
「拒めんのか、これは」
「拒めます。査察妨害として記録に残り、審での心証を悪くするだけで」
「それは、拒めんと言うんじゃ!」
「ええ。ですから――」
わたしは、オイゲンに向き直って、微笑んだ。
「どうぞ、お持ちください」
ギードが、絶句した。
「まあ、慌てないの。……ニコ!」
呼ぶと、廊下の向こうから、ぱたぱたと足音がして、ニコが顔を出した。その後ろに、村の子供が三人。それぞれの胸に、帳面の束を、大事そうに抱えている。
「お姉ちゃん、呼んだ?」
「ええ。あなたたちの修業の成果を、ギードに見せてあげて」
机の上に、帳面の束が、積み上がっていく。
領の主帳簿の写し。徴税台帳の写し。受け払い記録の写し。子供の字は、お世辞にも達筆とは言えない。線は歪み、ところどころ、墨が滲んでいる。
けれど、数字は、一字も間違っていなかった。
「弟子入りの最初の修業が、写しでした」
わたしは、ギードに言った。
「字と数字の稽古を兼ねて、この子たちが、写し続けてくれたんです。検算は、わたしとマルタで、全部、済ませてあります」
「……いつの間に、そんな」
「帳簿は、二冊あると強いのよ。……ね、ニコ」
「おう! ひと月、毎晩だぜ」
ニコが、鼻の下を、指でこすった。その指先には、洗っても落ちない墨の染みが、できている。
「おいら、麦の帳を三回写した。夢ん中でも、麦が数えられるようになった」
「あたしの検算も、褒めとくれよ」
いつの間にか来ていたマルタが、笑った。
「子供らの写しと原本と、読み合わせでね。夜なべ仕事さ。財務官様が言ったんだ。『いつか、写しがこの領を守る日が来る』って。……ほんとうに来るとはねえ」
オイゲンは、机の上の写しの束を、しばらく、見ていた。
「……保全の対象は、原本と、規程にあります。写しは、対象外です」
「ええ、存じています。ですから、写しの話は、していません。原本は、どうぞ」
規則の人は、規則の外には、手を出せない。出したくても、出さない。この人のそういうところだけは、もう、信用していた。
午後、荷馬車が、館の前に着けられた。
噂を聞きつけた村人たちが、門の外に、集まり始めていた。
「帳簿を、持っていかれるって……」
「うちの納めの控えも、あの中かい」
不安の声が、ざわざわと揺れる。当然だ。あの帳簿には、この三年の、みんなの汗が載っている。俵の一つ、山羊の一頭まで。
「みんな、心配いらないよ!」
マルタが、門の前で、声を張った。
「財務官様には、算段があるんだ。あたしらは、財務官様の帳を信じる。……それとも誰か、あの人の数字が外れたところを、一度でも見たことがあるのかい」
……ないねえ、と、誰かが言って、少しだけ、笑いが起きた。
帳簿が、一冊ずつ、木箱に納められていく。木箱を荷台へ運び上げるのは、財務院の人夫たちだ。その傍らに、ヴォルフ様が、腕を組んで、仁王立ちしていた。何も言わない。何もしない。ただ、立っている。
人夫たちの箱の扱いが、目に見えて、丁寧になった。
(……便利だこと、あの立ち姿)
わたしは、荷馬車の傍らに机を出させて、新しい帳面を、一冊、開いた。
「オイゲン様。お持ちになる前に、一つだけ、お付き合いください」
「何でしょう」
「押収の目録です。持ち出す帳簿の題と冊数を、一冊ずつ、ここに記します。あなたは、一冊ごとに、受け取りの印を」
オイゲンは、わたしの帳面を、覗き込んだ。
「……全冊分、ですか」
「全冊分です。『領の主帳簿・三年前の分・一冊』、受領の印。『徴税台帳・マルタの村・一冊』、受領の印。――そういう決まりでしょう? 物が動くときは、必ず、受け渡しの記録を残す。あなたの規程にも、確か、あったはずだけれど」
「……あります。物品保全の、受領手続き」
「では、どうぞ」
オイゲンは、懐から、印を取り出した。
それから、六十七冊。一冊ずつ、わたしが題を読み上げ、目録に記し、オイゲンが印を押した。午後が、まるまる潰れた。彼は、一度も、手を抜かなかった。手を抜けない人なのだ、この人は。
途中、ギードが、呆れ半分に数を数え上げた。
「五十……五十一……。財務官様よ、王都の御仁の腕が、先に折れるんではないか」
「折れません」と、オイゲン。「規程の手続きに、腕の疲れは、考慮されません」
「……変わった御仁じゃ」
(そう。あなたは、規則には逆らえない。……その几帳面さ、こちらでも使わせていただくわね)
夕暮れ、帳簿を満載した荷馬車が、門を出ていった。
見送るニコたちは、写しの束を、ぎゅっと抱えていた。
「……なんか、盗られたみたいで、やだな」と、ニコ。
「盗られていないわ。貸しただけ」
「貸した?」
「そう。それも、証文つきで」
わたしは、受領印のずらりと並んだ目録を、ニコに見せた。
「いい、ニコ。今日の講義よ。……物もお金も、動くときは、必ず、通り道の記録を残すの。何が、いつ、何冊、誰の手に渡ったか。この目録と印があれば、たとえば向こうで帳簿が一冊消えても、一頁破られても、一字書き換えられても――『渡したときは、そうではなかった』と、言い切れる」
「じゃあ、もし王都で帳簿に何かあったら……」
「何かをしたのは、受け取った側。逃げ道は、この印が、ぜんぶ塞いでいる」
ニコは、目録と、遠ざかる荷馬車を、見比べた。
「……お姉ちゃん、悪い顔してる」
「財務官の顔と、言いなさい」
夕陽が、写しの束を抱えた子供たちの影を、長く伸ばしていた。原本は、行った。けれど、この領の数字は、子供たちの腕の中に、ちゃんと残っている。
荷馬車が、街道の向こうに、小さくなっていく。
砂埃の立つその道を見ながら、わたしは、胸の内で、あの査察官に語りかけた。
(オイゲン様。あなたは、数字を運ぶだけだと、おっしゃったわね)
(けれど、覚えておいて。――数字はね、運んだ道も、帳面に残るんですよ)
検め直しの審は、もう、目の前だった。
第38話、お読みいただきありがとうございます!
証拠の帳簿を根こそぎ押収――のはずが、写し六十七冊分の「どうぞ」で迎え撃たれる回でした。ニコたちの弟子修業が、ここで効いてきます。子供の字で綴られた副本、強い。
そして受領印の目録。数字は、運んだ道も帳面に残る。この一行が、次回への布石です。
次回、検め直しの期日、ついに確定。夜なべの突き合わせで、ニコが「あるもの」を見つけます。ブックマーク・★評価、いつも本当に励みになっています!




