第37話:手紙は、数字より遅れて届く
王都からの紙は、それで終わりでは、なかった。
数日後、また一通。ただし今度の封蝋は、天秤でも、盾と獅子でもなかった。
麦穂を絡めた塔の紋。――ライゼンタール伯爵家。わたしの、実家だった。
「……めずらしいことも、あるものね」
辺境に来てから、季節が三つ、変わった。その間、実家からの便りは、一通もなかった。娘が生きているかどうかの問い合わせすら、なかった家から、手紙が来た。
執務室で、一人、封を切った。
父の字だった。昔と変わらない、形ばかり立派な、癖のある字。
『エルナへ。息災のことと思う。さて、家の勝手向きが、このところ思わしくない。ついては、娘の務めとして、当座百五十グルデンの融通を頼みたい。年の瀬までに利足を納めねば、屋敷に手が入りかねぬ。ライゼンタールの名を思えば、否やはあるまい。悪いようにはせぬ』
読み終えて、わたしは、しばらく、窓の外を見ていた。
(……詫びの一行も、ないのね)
娘の務めとして。否やはあるまい。悪いようにはせぬ。
家を出た日と、同じ言葉遣い。命じることに慣れて、頼み方を知らない人の文章。この手紙のどこにも、「すまなかった」も「頼む」も、書かれていない。
(いいわ。それは、いい。期待も、していなかったもの。それより――)
わたしは、手紙を、もう一度、最初から読んだ。今度は、娘の目ではなく、財務官の目で。
手紙に書かれた数字は、一つだけ。百五十グルデン。
けれど、帳簿の読み方には、こういうものがある。書かれた数字より、書かれなかった数字のほうが、多くを語る。言葉の影には、隠れた数字が並んでいる。それを、行間から、逆算するのだ。
(まず、「当座」百五十。当座、ということは、これで終わりではない、ということ)
(次に、「利足を納めねば」。この百五十は、借金そのものを返すお金ではなく、利子の支払いに消えるお金。つまり、年の利足の額)
(王都の金貸しの相場は、よくて一割。百五十グルデンが年の利足なら――元の借金は、千五百グルデン)
そろばんを、弾くまでもなかった。
千五百グルデン。
伯爵家の格式を保つ年の費えと、あの家の領地の実入りを、わたしは、誰よりも知っている。あの家の帳簿を、十年、つけてきたのは、わたしだから。あの実入りで千五百の負債は――もう、利足を払うだけで、精いっぱいのはず。元の借金は、一グルデンも、減らせていない。
(この家、いよいよ、沈むのね)
(皮肉なものだわ。あの家の傾きは、数字の上では、とうの昔に始まっていた。手紙は――人の言葉は、いつも、数字より遅れて届く)
不思議なくらい、心は揺れなかった。いえ。揺れなかった、と言い切れば、嘘になる。
十一の歳から、わたしは、あの家の帳簿をつけていた。
母さんが亡くなってからは、ずっと一人で。夜、家庭教師が帰ったあと、こっそり書斎に入って。父も継母様も、帳簿がひとりでに合っているものだと、思っていた。舞踏会の費え。宝石。父の付き合いの酒。膨らんでいく出を、わたしは、領地の実入りと細かな倹約で、必死に繋いでいた。
「地味で、扱いにくい娘」の、誰にも知られない、夜なべ仕事。
わたしが家を出てから、あの帳簿は、誰がつけているのだろう。……いえ。たぶん、誰も、つけていない。帳簿は、つけなくても、すぐには誰も困らない。困らないまま、静かに水が入って、ある朝、水面の高さに、みんなが驚くのだ。
数字は、とっくに、知らせていたのに。
わたしは、立ち上がって、棚から、母の形見のそろばんを下ろした。
机の上、実家の紋の手紙の隣に、そっと、並べて置く。
麦穂と塔の紋。母さんが嫁いで、帳簿を抱えて、必死に支えて、それでも大事にされないまま逝った家の紋。その隣で、黒い玉が、灯りを受けて、静かに光っている。
「……母さん。あの家、わたしの代で、査定することになりそうよ」
母は、あの家で、泣き言を言わなかった。ただ、夜ごと、帳簿をつけていた。合わない帳尻を、それでも合わせようと。幼いわたしに、玉の弾き方を教えながら、こう言っていた。
――帳はね、エルナ。恨みで書いては、駄目。祈りでも、駄目。あったことだけを、書くの。
母さんの帳簿は、いつも、きれいだった。恨みたいことの多い家で、恨みの一字もない帳を、つけ続けた人。あの帳のきれいさが、あの人のたった一つの戦い方だったのだと、いまなら、分かる。
扉が、遠慮がちに、叩かれた。
ヴォルフ様だった。夜食の盆を、自分で持って。厨房に立ったのだろう、パンの切り方が、豪快に、不揃いだった。
「……灯りが、遅かったから」
「ありがとうございます。ちょうど、温かい物が欲しかったところでした」
彼は、机の上の手紙に、目を留めた。紋章で、察したらしい。何かを言いかけて、やめて、結局、短く言った。
「……実家か」
「はい。お金の無心です。当座、百五十グルデン」
「……百五十で、済むのか」
「済みません。あれは、井戸に落ちた桶を、紐も付けずに引き上げようとするお金です。手を離せば、また落ちる。何度でも」
「そうか」
「ええ。そういう手紙です」
「払うのか」
「さあ。……どう思われます?」
「俺には、分からん」
ヴォルフ様は、正直だった。
「だが、金なら、ある。お前が稼いだ黒字だ。お前が使い道を決めろ。誰にも、文句は言わせん」
(……この人の、こういうところだわ)
潰しておしまいなさいとも、助けておやりとも、言わない。わたしの帳場に、土足で入らない。それがどれだけ得がたいことか、この人は、たぶん、分かっていない。
「決めています」と、わたしは言った。
「潰しません。助けません。――査定します」
「査定……」
「ええ。あの家の帳簿を洗いざらい検めて、数字の答えだけを、出します。立て直せるなら、その道筋を。立て直せないなら、その旨を。……私怨で潰せば、わたしは母さんの帳に、恨みを書くことになる。情で助ければ、祈りを書くことになる。どちらも、駄目なんです。あったことだけを、書く」
かつて、零落したアーレンスの若君が、この辺境へ助けを乞いに来たとき、わたしは、そうした。潰しも助けもせず、帳簿を検めて、数字の答えだけを渡した。
身内だからといって、帳の付け方は、変えない。それがわたしの礼儀で――たぶん、母さんの帳の、正しい続きだ。
ふと、左手の薬指で、銀の指輪が、灯りを受けて光った。
血の繋がった家からは、お金の無心が来て。血の繋がらない人からは、母君の形見が来た。
(……縁というものの帳尻は、つくづく、不思議なものね)
「では、すぐ返事を書くのか」
「いいえ」
わたしは、手紙を畳んで、文箱の、いちばん奥に納めた。
「返事は、保留です。いまは、目の前に、先客がいますから」
窓の外、離れの客室には、今夜も、几帳面な灯りがともっている。特別賦課の検め直しの審は、もう、遠くない。
(お父様。あなたの帳簿は、逃げません。……逃げるお金も、もう、ないでしょうし)
われながら性格の悪い逆算をして、わたしは、不揃いなパンを一切れ、かじった。
ヴォルフ様の切ったパンは、不揃いで、大きくて、なぜだか、とても、おいしかった。
第37話、お読みいただきありがとうございます!
三通目の手紙は、実家から。書かれた数字は百五十でも、行間には千五百が並んでいる――「行間の逆算」の回でした。そして、お父上、詫びの一行くらいは書きましょうよ……。
エルナの答えは「潰さない、助けない、査定する」。恨みでも祈りでもなく、あったことだけを書く。お母さんの帳の、正しい続きです。
次回、オイゲンが最後の強硬手段に出ます。「押収するなら、写しをどうぞ」。ブックマーク・★評価で応援していただけると、とても嬉しいです!




