第36話:婚約にも、認可が要るそうです
戸別査定の列が、領の三つ目の村に移った頃。
オイゲンは、今日も、どこかの村の蔵の前で、山羊やら俵やらを、律儀に数えているはずだ。
その几帳面な包囲の中でも、館の朝は、変わらず回る。ギードが書類を運び、厨房からは焼き立てのパンの匂いがして、わたしは、いつもの机で、いつもの帳簿を開く。
変わらない朝は、それだけで、ちょっとした勝利だ。……そう思っていた、矢先だった。
王都から、また、書状が来た。
「財務官様。今度のは……天秤の紋では、ないぞ」
ギードが差し出した封書の蝋には、盾と獅子の意匠。見覚えのない紋だった。
「王国紋章院。――貴族の家格と、縁組を司る役所じゃ」
宛名は、わたしではなかった。グラウフェルト辺境伯、ヴォルフ・フォン・グラウフェルト殿。
ヴォルフ様は、執務室で、それを開いた。読み進むにつれ、書状を持つ手の甲に、静かに筋が浮いていくのが、見えた。
「……ヴォルフ様?」
返事は、なかった。
代わりに、みし、と、紙の鳴る音がした。
書状は、彼の拳の中で、握り潰されていた。
(……あの賦課の通達すら、潰さなかった人が)
二百グルデンの理不尽を突きつけられたときも、この人は、通達をそっと机に戻した。その人が、いま、無言で、紙を潰している。
「読んでも、よろしいですか」
わたしは、その拳に、手を添えた。ゆっくりと、指がほどかれる。皺だらけになった書状を、机の上で、伸ばした。
『貴族の婚姻は、王家の裁可を要する。裁可の願い出には、慣例により、大貴族の連判による添え状を要する。しかるに、グラウフェルト辺境伯とライゼンタール伯爵家息女エルナとの縁組については、添え状が整わざるにつき、裁可の手続きを、停留とする』
さらに、続きが、あった。
『なお、当該息女の家格および出自については、つまびらかにすべき点があるとの申し立てが、複数の貴族より、なされている』
(……つまびらかに、ですって)
要するに、こうだ。
わたしとヴォルフ様の結婚は、王都のどこかの誰かたちが「添え状」を書かない限り、進まない。そして、その誰かたちは、書かないと決めている。おまけに、わたしの出自に、難癖の種を蒔き始めている。
勘当こそされていないけれど、実家と縁の薄い、持参金もない娘。突ける脇なら、いくらでもある。
「エルナ」
ヴォルフ様の声は、低かった。灰の境で魔物と対峙するときの声だと、あとでギードが言った。
「俺は、お前を――」
「存じています」
わたしは、皺の寄った書状を、丁寧に、畳んだ。
「ですから、怒らないでくださいな。……いえ、違うわね。怒ってください。ただし、いまは、仕舞っておいて」
「仕舞う……?」
「怒りは、費えです。使えば、減ります。――取っておきましょう、使いどころまで」
わたしは、指を、一本ずつ折った。
「狙いを、算盤に置いてみましょうか。賦課で、領の懐を突く。査定で、領の暮らしを突く。それでも、わたしが退かないものだから――今度は、わたし自身を突くことにした」
「……どういうことだ」
「婚姻を停めれば、わたしは、この領にとって、いつまでも『よそ者』のままです。書類の上では、どこの家の者とも、つかない。宙ぶらりんの娘は、いつか居づらくなって、自分から辺境を離れる。……そういう絵図でしょう」
「お前を、引き剥がしに来たか」
「ええ。帳簿では、崩せなかったから」
(裏を返せば、認めてくださったのよね。帳簿では勝てない相手だと。――光栄なこと)
皮肉に笑ってみせられる程度には、腹は据わっていた。それでも、指先は、少しだけ、冷たかったと思う。
正直に、帳簿をつけておこう。
この横槍は、賦課の通達より、査定の触れより、ずっと深いところに、刺さった。
賦課は、領の懐を狙った。査定は、領の暮らしを狙った。でも、これは――わたしが、この土地の人間になること、そのものを狙っている。
「華がない」と捨てられたわたしを、能力ごと欲しいと言ってくれた人がいて、その隣に立つことを、わたしは、生まれて初めて、自分で選んだ。その選択に、王都の見知らぬ誰かが、「認可せず」と、書式で答えてきたのだ。
(……ええ、痛いわ。痛いと、ちゃんと帳面につけておく。誤魔化した痛みには、あとで必ず、利子がつくもの)
ヴォルフ様は、机を回り込んで、わたしの前に立った。
「エルナ。一つだけ、言っておく」
「はい」
「俺は、世辞も、社交も、王都の作法も知らん。だが――お前を諦める作法だけは、どこにも売っていない」
(……この人は、たまに、とんでもない殺し文句を、無自覚に放るのよね)
「……ええと。つまり?」
「二人で、戦うということだ」
大きな手が、机の上の書状に――ではなく、その手前の、わたしの手に、重ねられた。
「お前の戦に、俺を入れろ。今度のは、帳簿だけの戦では、ないのだろう」
「……はい。喜んで」
冷たかった指先に、体温が、戻ってくる。怒りは費えだと、言ったばかりなのに。この温かさは、何の勘定にも、載せようがなかった。
咳払いが、聞こえた。
「仲がよろしいのは結構じゃがな。……財務官様、厄介なことを、一つ」
(……また言われたわ)
ギードは、書状の一点を、節くれ立った指で示した。連判、の二文字。
「大貴族の連判というのはな、誰でもよいわけではない。筆頭に署名する家格が、代々、決まっておる。――ロートヴァイン侯爵家じゃ」
「ロートヴァイン……」
「社交界の重鎮での。大貴族の寄り合いの、まとめ役よ。あの家が筆を執らねば、他の家は、誰も書かん。逆に、あの家が書けば、皆、右へならえじゃ」
「どのような、お方なの」
「わしも、先代のお供で、遠目に見たきりじゃがの。……鷹揚な、笑顔の御仁じゃよ。誰にでも、にこにこしておられる。にこにこしたまま、人の家を三つ四つ潰してこられた御仁じゃと、昔から、社交の席では言われておった」
つまり、わたしたちの婚姻の鍵は、会ったこともない一人の侯爵が、握っている。
「して、じゃ」
ギードは、白い眉を、深く寄せた。
「わしには、どうにも、臭うんじゃがの。財務院の賦課と、紋章院の停留。役所は別、筋も別。……それが、同じ秋に、同じ領へ、揃って降ってくるものかの」
(……ええ、ギード。わたしも、同じことを考えていたわ)
役所が違えば、矢の出所も、違って見える。けれど、矢というものは、放つ手が同じでも、別々の窓から射かけることが、できるのだ。
「して、どうするね、財務官様。相手は、帳簿の外の大物じゃぞ」
「そうですね。……まず、調べます。どんな大物にも、必ず、お金の出入りはある。お金の出入りがあるところには、必ず、帳がある。帳があるなら」
「あるなら?」
「読めます。いつか、必ず」
ヴォルフ様が、低く、唸った。
「……俺が斬りに行くわけには、いかんのだろうな」
「いきません」
「冗談だ」
「目が、笑っていらっしゃらないのよ」
わたしは、中央との戦いの帳を開き、新しい名を、一つ、書き込んだ。
『ロートヴァイン侯爵。婚姻裁可、連判筆頭』
証は、まだ何もない。けれど、帳簿の習いで言うなら――出所の分からないお金と、出所の分からない矢は、必ず、出所を調べることに、決まっている。
(お待ちなさいな、侯爵様。あなたの帳簿も、いずれ、読ませていただきます)
第36話、お読みいただきありがとうございます!
賦課の次は、婚約に横槍。理不尽は今日も書式を整えてやってきます。あの通達を握り潰さなかったヴォルフが、今回は無言で握り潰しました。彼の帳簿では、エルナの項目だけ、勘定が別立てのようです。
そして「怒りは費えです。取っておきましょう、使いどころまで」。使いどころは、ちゃんと来ます。ご期待ください。
次回、王都からの三通目。今度の封蝋は――実家の紋です。ブックマーク・★評価、いつも本当に励みになっています!




