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第34話:不当、しかし合法

検め直しの申立てが受理されて、十と三日。


王都から、検分使が来た。


「久しいな、財務官殿」


ハーゲン殿は、半年前と同じ、飾り気のない旅装で、館の玄関に立っていた。ローデリヒとの監査対決のとき、王都から立会いに来た、あの検分使だ。


「その節は、お世話になりました。ようこそ、グラウフェルトへ」


「世話をした覚えはない。私は、検めただけだ」


(……相変わらずね、この方も)


オイゲンとは、また違う。あちらには温度がない。こちらは、温度はあるけれど、天秤の皿には決して載せない人だ。載せるのは、事実だけ。


その晩の食卓に、ハーゲン殿は、着いた。着いたけれど、出された猪肉の煮込みには匙を二度つけただけで、麦粥と塩茹での豆ばかりを、静かに食べた。


「お口に、合いませんでしたか」


「うまい。うますぎる。……検分の前の晩に、検められる側の馳走で腹を満たすわけには、いかんのでな」


ヴォルフ様が、眉を上げた。


「毒でも、盛ると思うか」


「思わん。だが、情は、毒より効く」


(……この方の帳簿は、今夜も一分の隙もないこと)


翌日。執務室の机には、あらかじめ、三つの物を並べておいた。


財務院の算定書。わたしの反証の綴り。そして、金貨の目方を量るための、小さな天秤。


ハーゲン殿は、椅子に着くと、茶だけを受け取った。マルタが持たせてくれた焼き栗の皿には、手をつけなかった。


「検分の間は、茶までと決めている。……うまそうだがな」


最後の一言だけ、すこし、人間だった。


検分は、昼から夕暮れまでかかった。


ハーゲン殿は、算定書を読み、反証を読み、時折わたしに短い問いを投げ、また読んだ。頁をめくる音と、暖炉の薪の爆ぜる音だけの、長い午後だった。


窓の外で、秋が深まっていく。収穫を終えた畑は、もう、来年の春まで眠る支度をしている。


やがて、検分使は、顔を上げた。


「結論から言う」


わたしは、背筋を伸ばした。


「この算定は――不当だ」


(……!)


思わず、腰が浮きかけた。それを、次の一言が、押さえつけた。


「だが、適法だ」


「……両方、ですか」


「両方だ」


ハーゲン殿は、算定書を、机の中央に、静かに置いた。


「あなたの反証は、正しい。実った畑から実った分だけ取る式は、種を蒔く者から、蒔く理由を奪う。数年で、この式は、課す相手そのものを失うだろう。政としては、愚かだ」


「では――」


「だが、愚かさは、違法ではない」


天秤の腕が揺れるように、言葉が、行って、戻った。


「法は、賦課の算定を、財務院に委ねている。委ねられた者が、その裁量の内で式を立てた。ゆえに、この式は、法に適う。……不当だが、適法だ」


わたしは、言葉を、探した。


「正しくないものが、法に、適うのですか」


「適う」


ハーゲン殿は、即答した。


「財務官殿。正しいかどうかを検める帳と、法に適うかどうかを検める帳は、別の帳面だ。人は、この二冊を、よく、一冊だと思い込む。――思い込んだ者から、負ける」


(正しさの帳と、法の帳。……別の、二冊)


わたしは、この半年、帳簿で勝ち続けてきた。バルトロトの中抜きは、正しくなくて、違法だった。ローデリヒの賦課も、正しくなくて、違法だった。だから、割れた。二冊の帳が、同じ答えを出してくれていたのだ。


今度の敵は、初めて、二冊の答えが、割れている。


「では、検め直しは、無駄だと仰るのですか」


「そうは言っていない」


検分使は、初めて、机の上の天秤に、手を伸ばした。空の皿の片方を、指先で、すっと押し下げる。


「式そのものは、この場では覆らない。だが、式に入れる数字が偽りなら、答えは崩れる。検め直しの審で争えるのは、そこだ。算定の、当てはめ。使われた数字が、事実か、否か」


「……事実か、否か」


「あなたの得意な戦場のはずだが」


「……一つ、伺ってもよろしいですか」


「検分に関わることなら」


「この式を書いたのは、どなたです」


ハーゲン殿は、初めて、わずかに間を置いた。


「分からん。財務院の名で出た式に、書いた者の名は、残らん。役所というのは、そういう風にできている」


「名前を、残さずに済む仕組み……」


「そうだ。私が検められるのは、皿に載った目方だけでな。……秤を作った者までは、検められん」


(皿の上は検められて、秤の作り手は検められない。……よくできた話だわ)


扉のそばで、腕を組んで聞いていたヴォルフ様が、口を開いた。


「検分使殿。つまり、どういうことだ。俺にも分かるように、頼む」


「式は殴れん。だが、式に入れた数字に嘘が混じっていれば、そこは殴れる。そういうことだ、辺境伯殿」


「なら、話は早い」


(殴る、で通じてしまったわ……)


ギードが、こほんと咳をした。


「じゃがの、財務官様。事実で崩すというても、向こうの数字は、向こうが握っておるんじゃろう。査定も、賦課の算定も」


「ええ。ですから、まず、こちらの数字を、一の位まで固めておくんです。向こうの数字と並べたとき、どちらが本物か、誰の目にも分かるように。……突き合わせというものは、正直な側が、必ず勝つ勝負ですから」


わたしは、机の算定書を、あらためて見つめた。


バルトロトを、倒した。帳簿で。ローデリヒを、倒した。帳簿で。悪い人を二人、この領から退けた。それでも――式は、降ってくる。誰が書いたのかも分からない、正しい顔をした式が、上から。


(この半年、わたしは、悪い人と戦ってきたつもりでいた。……違ったのね。悪い人たちは、仕組みの用意した椅子に、代わる代わる座っていただけ)


(悪人を倒しても、椅子は空くだけ。すぐ、次が座る)


倒すべきものの正体が、はじめて、輪郭を持った気がした。それは、人の形を、していなかった。


窓の下から、ニコたちのそろばんの音が、聞こえてくる。ぱちり、ぱちりと、拙くて、正直な音。


あの音の続く領を、式一枚に渡すわけには、いかない。


翌朝、ハーゲン殿は、発った。


期日は追って財務院より通達されること。検め直しの審は公開であること。立会いは自分が務めること。事務の言葉を過不足なく並べたあと、馬のあぶみに足をかけて、彼は、ふと、振り返った。


「財務官殿。式を崩したければ、事実で崩せ。それが、検め直しの作法だ」


「心得ました」


「それから――」


検分使は、一拍、置いた。


「仕組みを、変えたければ」


「変えたければ?」


「王都だ」


それだけ言って、彼は馬首を返し、街道の朝もやの中へ消えていった。


「王都、か」


見送りに並んだヴォルフ様が、ぽつりと言った。


「行くのか、いつか」


「さあ。……ただ、帳簿の習いで言えば、帳尻の合わない元帳は、いつか必ず、めくりに行くことになります」


「そのときは、俺も行く」


「あら。お留守番の帳も、大事な帳ですけれど」


「……考えておく」


ギードが、後ろで、盛大にため息をついた。


わたしは、検分使の消えた街道の彼方を、もう一度だけ見て、それから、懐の帳面を開いた。中央との戦いの帳。その二行目に、書き込む。


『敵は、人にあらず。式なり』


けれど、と、わたしは思う。式は、独りでは生まれない。書いた手が、必ず、ある。


(王都、ね。……ずいぶん、遠い帳場だこと)


秋の風が、刈り株だけの畑を、渡っていった。

第34話、お読みいただきありがとうございます!


「不当、しかし合法」。正しさの帳面と、法の帳面は、別の二冊――今回は、第2部の敵が「悪い人」ではなく「正しい顔をした仕組み」なのだと突きつけられる回でした。検分の間は茶しか口にしない検分使、信用できます(焼き栗は残念でした)。


次回、オイゲンの搦め手「戸別査定」が始まります。そして、ニコが大きな一歩を踏み出します。


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