第32話:数字を運ぶだけの男
その男は、通達の文面どおり、七日目の正午に、やってきた。
七日目の朝でも、夕方でもなく、正午。まるで、書状の余白にそう書いてあったかのような、正確さで。
この七日間、わたしたちは、遊んでいたわけではない。
帳簿という帳簿を、棚から下ろし、埃を払い、年の順に並べ直した。受け払いの控えは紐で綴じ直し、台帳の綴じの緩んだところは、ニコたち帳場の手伝いの子らが、総出で直した。
「客を迎えるのに、ずいぶんな念の入れようじゃな」と、ギードは呆れた。
「お客様じゃないわ。検める人よ。――検める人にいちばん効くのは、検めるところが、どこにもないことなの」
やましいものは、何もない。ないからこそ、完璧に見せる。数字の戦は、帳簿を開く前の、棚の並びから、もう始まっている。
「王国財務院特命査察官、オイゲンと申します」
館の玄関広間で、男は、寸分の狂いもない礼をした。
三十代の半ばくらいだろうか。旅装だというのに、外套には塵ひとつなく、折り目は定規で引いたようにまっすぐで、抱えた書類鞄の革は、磨き込まれて鈍く光っている。
顔立ちは、整っているといえば、整っている。けれど、印象に残らない。怒ってもいない。笑ってもいない。侮ってもいない。
何も、していない顔だった。
(……めずらしい)
わたしは、内心で、そっと算盤を弾いた。
バルトロトは、わたしを「数字をこねる小娘」と、あからさまに侮った。ローデリヒは、慇懃な笑みの裏に、刃を隠していた。敵意には、必ず、温度があった。熱いか、冷たいか。
この男には、温度がない。
「遠路、ご苦労さまです。辺境財務官の、エルナ・フォン・ライゼンタールです」
「存じております。決算書の署名を、拝見しましたので」
声にも、温度がなかった。事実を、事実として、置いただけ。
隣で、ヴォルフ様が、一歩前に出た。灰の境の武人が間近に立てば、大抵の役人は、目を泳がせる。ローデリヒの従者たちも、そうだった。
オイゲンは、目を泳がせなかった。
「グラウフェルト辺境伯閣下とお見受けします。財務院を代表し、ご領地の繁栄に、お祝いを申し上げます」
祝いの言葉すら、書式のようだった。
「……財務卿殿が、直々に検分に来られるのかと、思っていたがな」
ヴォルフ様が、低く言った。皮肉のつもりだったのだろう。
「卿は、多忙です。よって、名代として、私が参りました」
皮肉は、通じなかった。刃が、綿を切るように、手応えなく抜けただけだった。
執務室に場所を移すと、オイゲンは、書類鞄から、一枚の書面を取り出した。
「本日より、査察を開始します。ご用意いただきたいのは、以下の通りです」
読み上げられる目録を、わたしは、耳で数えた。
過去三年分の、領の主帳簿。徴税の台帳、村ごと、戸ごと。決算書の、根拠となった受け払いの記録、すべて。交易の取り決めの写し。賦課の納付の控え。倉の在庫の帳。
(……全部、ね)
つまり、この領の数字の、肌着から寝間着まで、ぜんぶ見せろという要求だった。
「拒否は、できるのかしら」
「できます」オイゲンは、即答した。「その場合、財務院規程により、査察拒否として記録され、特別賦課は倍額となります」
「……できない、と言うのね、それは」
「いいえ。できます。倍額になるだけです」
嫌味でも、脅しでもなく、本当に、ただの説明らしかった。この男の中では、「拒否する自由」と「倍額」は、帳簿の左右のように、静かに釣り合っているのだ。
わたしは、ふ、と息を吐いた。
「けっこうです。すべて、お見せしましょう。うちの帳簿は、下着まで清潔ですから」
「では、明日の朝八時から」
オイゲンは、時刻まで、正確に切った。
査察の触れは、その日のうちに、村々へ回った。
夕方には、マルタが、村の女たちを連れて、館へ来た。全員、そろって、不安な顔をしている。
「財務官様。王都のお役人が、あたしらの家の帳も見るって、本当かい。……うち、字が下手でさ。書き損じを、勝手に直したところも、ある」
「見せて」
差し出された小さな家計の帳を、わたしは、めくった。麦、塩、糸、山羊の乳。拙い字で、けれど、一日も欠かさず、つけてある。書き損じには、正直に、二重線。
「マルタ。この帳は、どこに出しても、恥ずかしくないわ」
「で、でもさ」
「いい? 帳簿の値打ちは、字の上手さでは、決まらないの。――嘘がないこと。続いていること。それだけ。あなたたちの帳は、その二つを、ちゃんと持ってる」
女たちの顔が、少しずつ、ほどけていく。わたしは、つけ加えた。
「胸を張って、見せてあげなさい。むしろ、王都の帳簿より、よほど正直よ」
――査察というものは、それ自体は、悪ではない。
数字が正しく扱われているかを、外の目で検めること。それは、本来、帳簿を清く保つための、大切な仕組みだ。わたし自身、バルトロトの帳簿を検めることで、この領を立て直してきた。
けれど、同じ刃物でも、料理に使うか、人に向けるかで、意味は変わる。
正しい手続きを、正しい書式で、相手を疲れさせるためだけに使う。これは、そういう査察だった。適法な、嫌がらせ。合法という鞘に納めたまま、突きつけてくる刃。
(さて、と)
夕刻、わたしは、帳簿の山を整えながら、廊下の窓から中庭を見下ろした。
オイゲンが、井戸のそばに立っていた。ニコが、そろばん片手に、ものおじせずに話しかけている。
「なあ、王都の役人さんも、玉っころ使うのか」
「使いません。財務院では、算木と筆算です」
「へえ! じゃあ、おいらのほうが早いかもな。財務官様に習ったんだ」
「そうですか」
オイゲンは、それだけ言って、立ち去った。子供の自慢に、笑いもせず、苛立ちもせず。何も、しなかった。
(……徹底しているわね)
わたしは、考える。
あの男は、駒だ。それも、感情という遊びのない、精密に削られた駒。憎むだけ、無駄。あの無表情を相手に、勝った負けたと熱くなるのは、それこそ、費えの無駄というものだ。
けれど、駒は、独りでは動かない。
駒の動き方を、丁寧に記録していけば、盤の向こうで、それを動かしている手が、見えてくる。どの筋を探らせているか。どこで時間を使わせようとしているか。何を、持ち帰ろうとしているか。
(あなたの主人の手筋、あなたの動きで、読ませてもらうわ)
翌朝、八時。
執務室の長机には、この領の三年分の数字が、寸分の乱れもなく、積み上がっていた。
オイゲンは、朝八時ちょうどに、扉を叩いた。
「では、始めます」
「ええ。――ようこそ、グラウフェルトの帳簿へ」
温度のない査察と、温度のない歓迎の、始まりだった。
第32話、お読みいただきありがとうございます!
第2部の敵・一人目は、感情のない査察官オイゲン。バルトロト(怒鳴る)、ローデリヒ(微笑む)ときて、今度の相手は――何もしない男です。侮ってくれない敵というのは、実は、いちばんやりにくいものです。
次回、エルナ、特別賦課の「計算式」に切り込みます。
ブックマーク・★評価で応援していただけると、更新の励みになります!




