第31話:黒字には、税金がかかるそうです
祝いの余韻というものは、思いのほか、長持ちする。
決算の祝いから、数日。館の廊下ですれ違う侍女は、まだ、にこにこしている。厨房からは、祝いの残りの香草鶏を粥に仕立て直す、良い匂いがする。中庭では、ニコが村の子たちを集めて、得意げに、そろばんの玉を鳴らしている。
「いいか、玉っころはな、位が上がると、一つで十になるんだ」
(……教え方まで、わたしの真似だわ)
わたしは、窓辺で、こっそり笑った。
「財務官様。――いや、もうすぐ、奥方様、かね」
振り向くと、マルタが、籠を抱えて立っていた。祝いの持ち寄りの残りだという、干しいちじくと、焼き菓子。村の女たちから、と言って、彼女は、にやにや笑いを隠しもしない。
「その呼び方は、まだ、気が早いわ」
「あたしらは、もう十回は祝杯を上げたよ。領のみんな、自分のことみたいに喜んでる。――あんたが来る前は、祝い事なんて、何年もなかったんだ」
左手の薬指には、まだ、慣れない重さがある。ヴォルフ様の母君の形見だという、細い銀の指輪。婚約の証。
赤字だらけで始まったわたしの人生は、いま、間違いなく、黒字だった。
――だから、というわけでもないだろうけれど。
その朝、王都から、二通目の早馬が来た。
「財務官様。……また、だ」
ギードが、執務室に、一通の封書を置いた。数日前、財務卿ヴァルデマールの祝いの封書を運んできたときと、同じ顔をしている。めずらしく、引き締まった、渋い顔。
差出人は、王国財務院。
封蝋の紋章は、天秤の意匠。あの夜、見覚えがないと思ったあの紋は、財務院の印だったのだ。
(祝辞の次は、何かしら。歌でも贈ってくださるの)
開いて、読んだ。
歌では、なかった。
『グラウフェルト辺境伯領の当該年度決算における黒字計上を確認した。よって王国財務院は、繁栄の分かち合いの理念に基づき、同領に対し特別賦課二百グルデンを課すものとする』
わたしは、一度、目を閉じた。
開けて、もう一度、読んだ。文面は、変わらなかった。
「……ギード。これを、どう読みます?」
「わしは字は読めるが、腹の底までは読めん。財務官様の目には、どう見える」
「簡単ですよ」
わたしは、通達を、机に置いた。
「黒字を出した領にだけ、後から上乗せされる税。名目は『繁栄の分かち合い』。――要するに、頑張った者にだけ課される、罰金です」
二百グルデン。
この領の、正規の年間賦課は、四百グルデン。ローデリヒの過大な賦課を、命がけの監査対決で、ようやく半分に正した、その四百だ。そこへ、いきなり、半分をまた上乗せしてくる。
数字の大きさが、ぴんと来ないかもしれない。言い換えよう。この領が、何年ぶりかに出した最初の月の黒字は、十二グルデンだった。領のみんなで、灯りの油を惜しみ、種を選び、汗を流して、ようやく絞り出した十二グルデン。
二百グルデンは、その十六か月分と、お釣りだ。
一年半の汗が、紙一枚で、消える。
(……人の畑の実りを、収穫のときだけ数えに来る。いちばん、楽な商売だこと)
しかも、決算の数字が王都に届いたか届かないかの頃合いに、もう、この通達。
(最初から、書いて待っていたわね。わたしたちが黒字を出すのを、帳面の向こうで、じっと待ち構えていた)
祝いの封書と、この通達。差出人の系統は、同じ。ヴァルデマール。「近く、検分に伺いたい」と書いてよこした、あの人。
祝辞は、目くらまし。これが、本命。
執務室の扉が開いて、ヴォルフ様が入ってきた。わたしとギードの顔を見て、それから、机の上の通達を見て、足を止めた。
「……王都か」
「はい。お読みになりますか」
「読んでも、俺にはどうせ半分も分からん」と言いながら、彼は通達を手に取り、じっと、文字を追った。読み終えるのに、たっぷり、時間をかけた。
そして、低い声が、落ちた。
「――取れるようになった途端、取りに来たか」
その声には、聞き覚えがあった。怒りよりも、もっと古い音。諦めに、よく似た音。
先代の辺境伯――ヴォルフ様のお父君は、中央に財政を握られ、抗議もできないまま、心労で亡くなった。まだこの領が、取られるばかりだった頃の話だ。ヴォルフ様が数字から逃げ続けてきたのは、そのせいだった。
数字では、中央に勝てない。
その古い傷が、いま、通達一枚で、疼いている。
「親父のときも、こうだった」ヴォルフ様は、通達を、そっと机に戻した。握り潰さなかったのは、たぶん、彼なりの、進歩だった。「実りが良い年ほど、賦課の使いが早く来た。飢えた年には、誰も来なかったのにな」
「わしも、覚えとる」ギードが、静かに言った。「先代様は、使いが来るたび、書斎に一人でこもられた。何かを書いては、破いておられた。……何を書いておられたのか、とうとう、聞けずじまいだったが」
書いては、破く。
言い返す言葉を、持たなかった人の、机の上を、わたしは想像した。数字で殴られて、数字で殴り返す術を知らないまま、それでも何かを書こうとした人の、破かれた紙を。
「ヴォルフ様」
わたしは、立ち上がった。
「一つだけ、あの頃と、違うことがあります」
「……なんだ」
「いまこの領には、わたしがいます」
わたしは、机の通達を、指先で、とん、と叩いた。
「先代様の頃、この領は、言われるままに払うしかなかった。数字の言葉で、言い返せる者が、いなかったから。――でも、今度は、数字で戦えます。むしろ」
(黒字を狙って課すということは、あちらも、数字の土俵に上がってきたということ。なら、そこは、わたしの畑よ)
「向こうから、わたしの得意な戦場に、下りてきてくださったんです」
ヴォルフ様が、わたしを見た。古い音は、もう、していなかった。
「……頼もしいな、うちの財務官殿は」
「ええ。婚約者どのの領地は、一グルデンも、理不尽には渡しません」
ギードが、わざとらしく、咳払いをした。
「仲がよろしいのは結構じゃがな、財務官様。厄介なのは、そこの最後の一行じゃ」
言われて、わたしは、通達の末尾に、目を落とした。
『なお、賦課の適正な執行を検分するため、財務院より特命査察官を派遣する。到着は、本状より七日以内である』
査察官。
祝いの封書にあった「検分に伺いたい」は、社交辞令ではなかった。ただし、来るのは、卿本人ではないらしい。
(さて。どんな数字の使い手が、来るのかしら)
わたしは、母の形見のそろばんを、引き寄せた。
新しい帳簿を、一冊、下ろそう。中央との、戦いの帳。その最初の一行に、書き込むべき相手が、七日以内に、やってくる。
第2部「中央との会計戦争」、開幕です! お帰りなさいませ、そして、はじめましての方は、ようこそ。
黒字を出したら、黒字に課税されました。理不尽は、いつも、書式を整えてやってきます。でも、ご安心ください。うちの財務官は、書式の整った理不尽を、書式どおりに畳むのが、いちばん得意です。
次回、特命査察官、辺境に到着。――感情のない男が、やってきます。
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