第30話:婚約破棄を黒字にする
翌朝、ヴォルフ様は、わたしを、丘の上へ連れて行った。
館の裏手の、なだらかな丘。そこからは、グラウフェルト辺境伯領が、ひと目で見渡せた。
金色に実った麦畑。修繕された街道を、行き交う交易の馬車。遠くには、灰の境の灰色の山並み。そして、その手前に、戻ってきた人々の村々から、朝餉の煙が、いくつも、まっすぐに立ちのぼっている。
半年前、ここは、雑草に覆われた荒れ地と、空き家ばかりの、痩せた土地だった。
「……変わったな」
ヴォルフ様が、ぽつりと言った。
「お前が来てから、この土地は、変わった。いや――俺が、変わった、のかもしれん」
彼は、いつものように、言葉を探していた。無骨な指が、剣の柄を、意味もなく握ったり、離したりしている。
「俺は、ずっと、数字から逃げてきた。父が、それで死んだから。数字では、中央には勝てない。だから、剣で、領を守るしかない、と。――だが、それは、逃げだったんだな。お前が、教えてくれた」
「ヴォルフ様」
「最後まで、言わせてくれ」
彼は、わたしのほうへ、向き直った。いつも視線をそらす人が、まっすぐに、わたしを見ていた。
「俺は、お前の数字に、惚れた」
風が、麦の穂を、さらさらと鳴らした。
「最初は、礼のつもりだった。領を救ってくれた礼。だが、違う。お前が、夜通し帳簿に向かう背中。村の子に、玉っころを教えてやる手。脅されても退かない、あの、こめかみの冷たい目。――そのぜんぶに、俺は、いつのまにか」
ヴォルフ様は、一度、息を継いだ。
「『華がない、数字をこねる女』だと? あいつらは、宝を捨てたんだ。とんでもない、宝を。――俺は、その宝を、拾わせてもらった。だから、もう、二度と、手放したくない」
そして、彼は、ひざまずいた。
魔物境を一身に背負う、辺境の領主が。わたしの前に、片膝をついて。
「エルナ・フォン・ライゼンタール。俺の、妻になってくれないか。――いや、それだけじゃない。これからも、この土地の、財務官でいてくれ。お前の数字を、お前の生き方を、ぜんぶ、まるごと、俺は欲しい。お前という人を、能力ごと、生涯、守らせてくれ」
わたしは、息を、忘れた。
能力ごと。
その言葉が、胸の、ずっと奥の、一番固く閉ざしていた場所に、触れた。
――華がない。数字をこねるしか能のない女。
父も、継母も、レオンハルトも、社交界の誰もが、わたしの「数字」を、疎んだ。地味で、扱いにくい、可愛げのない娘。わたしの一番得意なものが、わたしの一番嫌われる理由だった。だから、わたしは、ずっと、思っていた。
わたしは、愛されない。この能力を持っている限り、誰にも、丸ごとは、愛されない、と。
それは、母の形見のそろばんよりも、ずっと長く、わたしが抱えてきた、たった一つの、赤字だった。
なのに、この人は。
わたしが捨てられた、まさにその理由を――数字を、まるごと抱きしめて、「だから愛している」と言う。
(……ああ、そういうこと、だったの)
涙が、出そうになった。けれど、わたしは、泣かなかった。あの婚約破棄の夜にも泣かなかったわたしが、こんなときに泣くのは、なんだか、釣り合いが取れない。
代わりに、わたしは、母のそろばんを、懐から取り出した。
「ヴォルフ様。一つだけ、計算させてください」
彼が、戸惑った顔をする。わたしは、淑女の声で、けれど、いたずらっぽく、続けた。
「半年前、わたしは、すべてを失いました。婚約者を。家を。居場所を。帳簿の上では、これ以上ない、大きな赤字でした。――失ったものを、左に、ぜんぶ書き出して」
ぱちん、と玉を一つ、弾いた。
「では、右側に、得たものを、書いてみましょうか。立て直した、一つの土地。帰ってきた、人々。わたしを慕う、村の子。数字を曲げなかった、わたし自身の、誇り。そして――わたしを、能力ごと愛してくれる、人」
ぱちん。ぱちん。ぱちん。
玉が、右側に、積まれていく。
「あの夜、わたしを捨てた人は、わたしの価値を、ゼロだと言いました。けれど、両建ての帳で、締めてみると」
わたしは、顔を上げ、ひざまずいたままのヴォルフ様を、まっすぐに見た。半年前の夜、誰も読めなかった答えを、今、読み上げるように。
「――これは、黒字にできます」
ヴォルフ様の顔が、ゆっくりと、ほどけた。
「いいえ。もう、できました。とっくに。わたしの人生で、いちばん、大きな黒字です」
わたしは、彼の、剣だこだらけの、傷だらけの手に、自分の手を重ねた。帳面を逆さに持っていた、けれど、誰よりも誠実な、この手に。
「ふつつか者ですが。――数字をこねる女で、よろしければ」
ヴォルフ様が、立ち上がり、わたしを、そっと抱きしめた。麦の匂いと、陽だまりの匂いがした。
「それが、いい。それが、いいんだ」
不器用な、けれど、確かな声だった。
丘の下から、歓声が上がった。いつのまにか、ギードが、マルタが、ニコが、戻ってきた村人たちが、丘を見上げて、手を振っている。ニコが、わたしの真似をして、小さなそろばんを、頭の上で、ぱちぱち鳴らしている。
わたしは、笑った。声を上げて、笑った。こんなふうに笑うのは、いつぶりだろう。たぶん、母が、生きていた頃以来。
婚約破棄を、黒字にする。
捨てられた不幸を。価値がないと言われた痛みを。失ったすべてを、わたしは、この半年で、いちばん豊かな資産に、振り替えた。立て直した土地と、帰ってきた人々と、能力ごと愛してくれる人と、そして、二度と揺るがない、自分の居場所に。
赤字は、天災じゃない。設計ミスだ。
だったら――人生だって、設計し直せば、黒字にできる。
(ありがとう、母さん。あなたのそろばんで、わたしは、わたしの帳尻を、合わせられたわ)
風が、麦の穂を渡っていく。
もちろん、わたしは、忘れてはいない。あの、王都からの封書を。財務卿ヴァルデマールの、影を。中央の搾取の仕組みは、まだ、根を張ったまま。この黒字を、上から潰しに来る者が、いる。わたしの正体の――両建ての帳を「完成」させた、あの遠い記憶の謎も、まだ、解けていない。
戦いは、終わっていない。たぶん、本当の戦いは、これから。
けれど。
今日だけは。この丘の上の、この一日だけは。
わたしは、ただ、この黒字を、噛みしめていたかった。
ヴォルフ様の腕の中で、わたしは、辺境の実りを、見渡した。
「ヴォルフ様」
「なんだ」
「来年も、再来年も。この黒字、もっと、もっと、大きくしましょう。――まだまだ、眠っている富が、この土地には、たくさんありますから」
ヴォルフ様が、低く、笑った。
「ああ。お前となら、なんでも、黒字にできそうだ」
実りの畑を背に、わたしたちは、並んで、立っていた。
赤字の辺境へ、捨てられるように、やってきた、あの日。
あれは、わたしの人生の、最初の黒字化計画の、始まりだったのだ。
そして、それは――まだ、終わらない。
――数日後。王都から、二通目の早馬が、駆け込んでくる。
差出人は、王国財務院。あの慇懃な祝いの言葉の、続きだった。
(……祝辞の次は、請求書。仕事の早いこと)
わたしの、二冊目の帳簿が――中央との、戦いの帳が、開こうとしていた。
第一部「赤字辺境の立て直し」、お読みいただきありがとうございました! 婚約破棄から始まったエルナの黒字化計画、ここに一つの帳尻が合いました。「これは、黒字にできます」――第3話から積み重ねてきた決め台詞が、エルナ自身の人生の帳尻として響いてくれていたら、これ以上の幸せはありません。
そして――第二部「中央との会計戦争」、始まります。次話から、辺境の黒字を狙い撃つ王国財務院との、数字の戦いです。エルナとヴォルフの、その後の溺愛も、たっぷりと。
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