第29話:四半期決算
決算、というものを、この辺境の人々は、知らなかった。
「金が足りた年は、良い年。足りなかった年は、凶作のせい」。それが、グラウフェルトの数えかただった。良いも悪いも、空まかせ。
だから、わたしは、一年を四つに区切って締める、という作法を、この地に持ち込んだ。四半期ごとに、入った金と、出た金を、ごまかしのきかない一枚の紙に並べる。黒字か、赤字か。空のせいにも、運のせいにもできない、剥き出しの答えを、出す。
その、最後の四半期の締めを、わたしは今、母のそろばんで、弾いている。
館の広間に、ヴォルフ様、ギード、村長のマルタ、そして領内の主だった者たちが、固唾を呑んで集まっていた。
ぱちん。ぱちん。
玉が、並んでいく。
入った金――正規に戻した徴税。再開した旧街道の、交易の上がり。眠っていた休耕地が、今年、初めて実らせた麦。死蔵されていた富が、一つずつ、数字になって、左の側に積まれていく。
出た金――治水。街道の修繕。種籾。来年のための、元手。右の側。
そして。
最後の玉を、わたしは、弾いた。
左が、右を、わずかに、上回った。
「……黒字、です」
わたしは、顔を上げた。
「グラウフェルト辺境伯領、今期決算。――わずかですが、確かに、黒字です。入った金が、出た金を、上回りました。この領が、記録に残る限り、初めて」
一瞬の、沈黙。
それから、広間が、揺れた。
「黒字……黒字だ!」「本当か! あの、王国一の貧乏領地が!」マルタが、両手で口を覆って、声を詰まらせている。逃散しかけた村を、たった一人でまとめてきた、あの気丈な女性が。
ヴォルフ様は、何も言わなかった。ただ、その決算書を、荒れた手で、そっと取り上げた。剣だこのできた、傷だらけの手。帳面を逆さに持っていた、あの手で。
そして、今度は、正しい向きで、長いあいだ、その一枚を見つめていた。
「……俺には、数字は、よくわからん」
低い声が、震えていた。
「だが、これが、黒字なんだな。父が、ついぞ見られなかった……父が、搾り取られて、抗うこともできずに、赤字だと思い込んで死んでいった、この土地の」
彼は、それ以上は、言えなかった。
わたしは、知っている。この赤字は、天災ではなかった。痩せた土地のせいでも、なかった。代官バルトロトの中抜き。中央財務伯ローデリヒの、過大な賦課と上前はね。そして、それを当たり前として許してきた、王国の徴税の、仕組みそのもの。三層の、人の手による、赤字。
ヴォルフ様の父君は、その仕組みの底で、声も上げられずに、潰された。
「赤字は、天災じゃありません」
わたしは、もう一度、あの言葉を言った。半年前と、同じ言葉を。けれど、今は、確かな手応えとともに。
「設計ミスでした。だから――設計し直したら、ご覧の通りです」
ヴォルフ様が、決算書を胸に当てて、目を閉じた。長く、深く。
その夜、辺境は、祝いに沸いた。
広場に火が焚かれ、村々から人が集まってきた。逃散して、戻ってきた家族たちの顔も、いくつもあった。重税に耐えかねて土地を捨て、近隣で困窮していた人々が、税が正されたと聞いて、一軒、また一軒と、帰ってきた。空き家だった納屋に、また、灯りが点っている。
食卓には、麦のパンが、山と積まれていた。豆のスープには、肉が浮いている。半年前、領民の分を削って出された、硬いパンと、薄い豆のスープを、わたしは思い出した。
あのとき、ギードが「豆を少し多めに入れさせる」と言ってくれた、たった一掴みの豆。
今、この食卓は、あの夜よりも、ずっと、ずっと、温かい。
「お姉ちゃん!」
足元に、ニコが駆け寄ってきた。すっかり背が伸びて、もう「玉っころ」とは言わない。今では、そろばんの一の位から百の位まで、ちゃんと数えられる。
「おいら、村のみんなの取れ高、勘定したよ! 帳面につけた! お姉ちゃんに、見せたくて!」
差し出された、たどたどしい文字の帳面を、わたしは受け取った。子供の手で、けれど、一の位まで、きちんと合っている。
(……育っているのね。数字が。この土地に)
胸の奥が、温かくなった。
火の輪から少し離れて、わたしは、母のそろばんを取り出した。玉のすり減った、けれど一つも狂わない、母の形見。
(見ていますか、母さん。あなたが教えてくれた両建ての帳が、こんな北の果てで、一つの土地を、飢えから救いました)
母ヨハンナ。商家から伯爵家へ嫁ぎ、「華のない嫁」と陰口を叩かれながら、娘にだけは、この帳簿術を授けてくれた人。何を持っていて、何を負っているのか、その両面を、同じ重さで見なさい――。
ふと、頭の隅に、いつもの、あの感覚がよぎる。母の教えだけでは、説明のつかない知識。両建ての帳を「完成」させている、もっと別の、どこか遠い記憶の、断片。
(……この知識は、本当は、どこから来たのかしら)
それは、まだ、わからない。けれど、今夜は、問わずにおいた。今夜は、ただ、この火と、この食卓と、帰ってきた人々の笑い声の中に、いたかった。
「ライゼンタール殿」
火明かりの中、ヴォルフ様が、わたしの隣に立った。何か言いかけて、けれど、言葉が見つからないらしく、無骨な横顔で、火を見ている。
「……明日、少し、時間をくれないか。話したいことが、ある」
その声に、いつもと違う、固さがあった。
「かしこまりました」とだけ、わたしは答えた。なぜだか、胸が、ほんの少し、騒いだ。
その時だった。ギードが、一通の封書を手に、わたしのそばへ来た。火明かりに、その顔が、めずらしく、引き締まっている。
「……令嬢様。王都から、早馬だ。祝いの席に水を差すようだが、見ておいたほうがいい」
封蝋には、見覚えのない紋章。けれど、その下に記された差出人の名に、わたしの指は、止まった。
――王国財務卿、ヴァルデマール。
中央の徴税の、頂点に立つ人。ローデリヒの、さらに上。バルトロトから始まった中抜きの川の、源流にいる人。
文面は、短かった。「辺境の決算、見事である。王国財務卿として、近く、改めて検分に伺いたい」。
慇懃な、祝いの言葉。けれど、その裏を、わたしは読んだ。
(検分、ね。――黒字になった辺境が、中央の搾取の構造を、暴きはじめている。それを、上から、潰しに来る気だわ)
火は、まだ、明るく燃えている。マルタの笑い声も、ニコのはしゃぐ声も、帰ってきた人々のさざめきも、夜の中に、温かく続いている。
けれど、その向こう、はるか王都の方角に、わたしは、一つの影が立ち上がるのを、感じた。
これまでの、答え合わせは、終わった。けれど、本当の戦いは、たぶん、ここから。
わたしは、封書をそっとたたみ、母のそろばんを、握りしめた。
(来るなら、来なさい。数字は、どんなに上の人が相手でも、嘘をつきませんから)
第29話、お読みいただきありがとうございます! ついに、辺境グラウフェルトの初めての「黒字決算」が確定しました! 半年前、王国一の貧乏領地と切り捨てられた土地が。眠っていた富が花開き、逃散した人々が帰り、食卓は温かくなり、ニコは数字を覚え、母の算盤は北の果てで一つの土地を救いました。すべての積み重ねが、たった一枚の決算書に。
そして、無骨な辺境伯ヴォルフが「話したいことがある」と――。次回、ついに第1部完結。エルナの「自分は愛されない」という傷に、答えが出ます。そして、タイトル「婚約破棄を黒字にする」が、回収されます。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。最終話、心を込めて書きます。ブックマーク・★評価で、最後まで見届けていただけたら、とても嬉しいです!




