第28話:黒字にできません、と申し上げます
三日後の朝、レオンハルト・フォン・アーレンス様は、再び応接間に現れた。
手には、わたしが渡した三枚の条件書。けれど、その顔を見た瞬間に、わたしには、答えがわかってしまった。
人は、決断したときには、不思議と背筋が伸びるものだ。彼の背中は、三日前より、もっと丸まっていた。
「エルナ。――この条件は、呑めない」
彼は、絞り出すように言った。
「散財を止めろと言うが、社交をやめれば、アーレンス家は侯爵家の格を失う。借金のために領地を手放せば、先祖から受け継いだものが、欠ける。徴税を下げれば……今、目の前の支払いが、回らなくなる」
(そう)
わたしは、膝の上のそろばんに、手を置いた。
「つまり、こういうことですね。痛みを、一つも引き受けたくない、と」
「そうじゃない! ただ、もっと、楽な道はないのかと……お前なら、もっと、こう、うまく――」
(うまく、ね)
わたしは、静かに、彼の言葉をさえぎった。
「レオンハルト様。一つ、お伝えしておきたいことがあります。会計には、できることと、できないことが、あります」
帳簿を、開いた。アーレンス家の、傾いた財布。
「数字の上で、無駄を削り、借金を組み直し、税源を育てる。――そこまでは、わたしの仕事です。直せます。けれど、その計画を実行するのは、わたしではありません。あなたです。あなたが、何一つ手放さないと決めるなら」
ぱちん、と玉を一つ、弾いた。
「どんな再建計画も、ただの、紙切れです」
レオンハルトが、口をつぐんだ。
「赤字の帳簿は、直せます。穴は、塞げます。けれど――その穴を、また同じように開けてしまう人がいる限り、何度直しても、同じところから水は漏れる。会計が直せるのは、数字です。人の、生き方ではありません」
わたしは、三枚の条件書を、そっと彼のほうへ押し戻した。
「ですから、申し上げます」
息を、一つ。
この半年、わたしがこの辺境で、何度も口にしてきた言葉がある。「これは、黒字にできます」。荒れた帳簿に、希望の道筋が見えたときの、わたしの決め台詞。
けれど、今、わたしの口から出たのは、その言葉の――裏返しだった。
「アーレンス侯爵家は、現状では」
レオンハルトの目を、まっすぐに見た。
「――黒字に、できません」
言葉が、部屋に落ちた。
レオンハルトの顔から、最後の血の気が引いていく。あの夜、わたしに婚約破棄を告げた、よく通る声。今、彼は、何も言い返せずにいた。数字の意味が、ようやく、わかったから。わからないから怒るしかなかった半年前とは、違って。
「……そう、か」
長い沈黙のあと、彼は、ぽつりと言った。
「半年で潰れる、と。あの夜、お前は言ったな。あれは……強がりだと、思っていた。捨てられた女の、負け惜しみだと」
「ええ。皆さん、そうおっしゃいました」
「事実、だったんだな。最初から、ずっと」
わたしは、答えなかった。答える必要が、なかったから。
ここで、勝ち誇ることもできた。「ですから、申し上げたでしょう」と、あの夜の意趣返しを、淑女の笑顔で。けれど、わたしは、しなかった。
不思議なことに、溜飲が下がる、という感じが、まるでなかったのだ。
目の前にいるのは、わたしを傷つけた人で、その人が今、自分の無能の前に立ち尽くしている。けれど、それは、わたしが「やった」ことではない。わたしは、ただ、数字を読んだだけ。彼を潰したのは、わたしではなく、彼自身が読めなかった、彼自身の帳簿だ。
(復讐なんて、するまでもなかったのね。最初から)
母が、いつか言っていた。「数字を、私情で曲げてはいけないよ、エルナ。曲げた数字は、いつか必ず、曲げた人に返ってくるからね」
わたしは、この三日間、ただの一度も、数字を曲げなかった。彼を陥れるためにも、彼を救うためにも。ただ、あるがままに、診た。それだけだ。
それが、たぶん、母から受け継いだ、わたしの誇りなのだと思う。
「……エルナ。一つ、言い忘れていた」
レオンハルトが、うつむいたまま、言った。
「ライゼンタール伯爵家も――お前の、実家も。同じ頃に、傾きはじめているそうだ。お前の父君も、いずれ、お前を頼ってくるだろう。あの方は、まだ、頭を下げるには、誇りが高すぎるが」
(お父様も、ね)
わたしは、ほんの少しだけ、目を伏せた。地味で扱いにくい娘だと、わたしを辺境へ捨てた人。その人の帳簿も、わたしという栓を失って、底が抜けかけている。
胸が痛むかと思った。けれど、痛まなかった。ただ、静かに、思った。――いつか、その日が来たら、わたしは、同じようにするだろう。情でも、恨みでもなく。ただ、数字で、診る。それが、わたしのやり方だから。
「お知らせ、ありがとうございます。その日が来たら、相応に、お受けします」
「お前は……強いな」
「いいえ。数字が、強いんです。わたしは、それを読んでいるだけ」
「レオンハルト様」
立ち上がりながら、わたしは言った。
「条件は、いつでも、お受けします。あなたが、何かを手放す覚悟ができたなら。――それは、明日でも、一年後でも、構いません。数字は、逃げも隠れもしませんから。いつでも、そこで待っています」
それは、せめてもの、情だったのかもしれない。突き放すのではなく、扉を、細く開けておく。歩いてくるかどうかは、彼次第。
レオンハルトは、三枚の条件書を、今度は丁寧に折りたたんで、懐にしまった。捨てては、いかなかった。
「……世話を、かけた。それと」
扉の前で、彼は、一度だけ振り返った。
「すまなかった。あの夜のことだ。お前は――華が、なかったんじゃない。私に、それを見る目が、なかった」
そう言って、彼は、辺境の門を出て行った。来たときよりは、少しだけ、背筋を伸ばして。
その背中が、灰色の街道の向こうへ消えるのを、わたしは館の窓から見送った。
恨みは、もう、どこにもなかった。あるのは、ただ、静かな区切りだけ。
(さようなら、わたしの古い帳簿。これで、あなたの頁は、閉じます)
振り返ると、廊下にギードが立っていた。一部始終を、聞いていたらしい。老副官は、ふん、と鼻を鳴らした。
「あんた、あの男を、嬲ることもできただろうに」
「数字は、脅しにも、嬲りにも、使うものじゃありませんから」
ギードは、しばらくわたしを見て、それから、めずらしく、口元をゆるめた。
「……先代が、あんたに会いたかっただろうよ。さあ、こっちだ。明日は、いよいよ、辺境の決算の日だ。この半年の、答え合わせさ」
この半年の、答え合わせ。
わたしは、母のそろばんを握りしめた。玉が、こつ、と硬い音を立てる。
明日。グラウフェルト辺境伯領が、本当に「黒字」になったのかどうかが、ごまかしのきかない場所で、確定する。
(さあ、母さん。最後の締めを、始めましょう)
第28話、お読みいただきありがとうございます! ついに告げられた、「黒字にできません」――エルナの決め台詞の、対となる一言。痛みを一つも引き受けられなかったレオンハルトの自滅が、ここに確定しました。
けれど、エルナは復讐に酔いません。ただ、数字を曲げずに、仕事をしただけ。その気高さこそが、彼女の本当の強さです。「華がなかったんじゃない、見る目がなかった」――半年越しの、静かな決着でした。
さあ、次回はいよいよ、辺境グラウフェルトの「四半期決算」。この半年の答え合わせです。痩せた赤字の地は、本当に黒字になったのか。すべての伏線が、一つの数字に収束します。
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