第27話:条件は、数字で
レオンハルト・フォン・アーレンス様は、わたしの向かいで、深く頭を下げていた。
かつて、大広間のシャンデリアの下で、「華がない、数字をこねるしか能のない女だ」とわたしを公衆の面前で切り捨てた人が。今は、すり切れた外套の袖を握りしめ、声を絞り出している。
「……頼む、エルナ。アーレンス家を、助けてくれ」
応接間の窓の外では、辺境の畑が、秋の陽を受けて金色に揺れていた。実った麦だ。半年前には、誰も種を蒔かない荒れ地だった土地が。
(ずいぶん、遠くまで来たものね。お互いに)
わたしは、母の形見のそろばんを、膝の上に置いた。
「頭を上げてください、レオンハルト様。――それと、一つだけ確かめさせてください。あなたは今、わたしに『助けてくれ』とおっしゃった。それは、施しが欲しいという意味ですか。それとも、再建がしたいという意味ですか」
「……違うのか、それは」
(違うのよ。まるで、別のものなの)
「施しなら、お断りします。わたしには、あなたに恵むお金はありません。この領のお金は、一グルデンも、領民のものですから。――ですが、再建のお手伝いなら、いたします。ただし、わたしのやり方で」
レオンハルト様が、顔を上げた。すがるような目だった。あの夜の、勝ち誇った顔とは、別人のような。
「わたしのやり方は、一つだけです。情ではなく、数字で診ます。よろしいですか」
彼は、馬車に積んできたという帳簿を、震える手で差し出した。
アーレンス侯爵家の、台帳。かつて、わたしが両建ての帳で整えていた、あの家の財布。
(半年ぶり、ね)
頁をめくる。そして、すぐに、わかってしまった。
整理されていない。わたしが抜けたあと、誰一人として、この帳簿に手を入れていない。徴収の記録は途切れ、支払いだけが膨らみ、借りた金で、また別の借金の利を払っている。穴を、もっと大きな穴で塞いでいる。
(……ああ)
婚約破棄の、あの夜。わたしが告げた言葉。「この家、半年で潰れますよ」。
あれは、敗者の強がりだと、皆が笑った。けれど、数字は嘘をつかなかった。わたしという栓を抜いた財布は、本当に、半年で底が抜けたのだ。それから今日まで、底の抜けた樽に、彼らはずっと、水を注ぎ続けてきた。
「レオンハルト様。一つ、たとえ話をします」
わたしは、そろばんの玉を一つ、弾いた。
「底に穴の空いた樽に、いくら水を注いでも、樽は満ちません。水を足すほど、こぼれる水も増える。あなたが今なさっているのは、それです。借金という水を注いで、利息という穴から、こぼし続けている」
「では……どうすれば」
「水を注ぐのを、やめるんです。まず。――そして、穴を塞ぐ。順番が、逆なんです」
彼は、わからない、という顔をした。半年前と、同じ顔。けれど、半年前と違って、彼は今、わたしの言葉に耳を傾けている。落ちぶれるというのは、時に、人に耳を授けるものらしい。
帳簿を繰る指が、ある一行で止まった。
「聖女様への、ご奉納」。月ごとに、目を疑う額が記されている。宝飾、祭服、寄進。ミレーユ嬢の「聖女」としての暮らしを支えるための、費え。
「……ミレーユ様は、今は」
レオンハルトの顔が、ゆがんだ。
「……出て行った。金が回らなくなった、と告げたら、その晩のうちに。『あなたといても、わたしの奇跡は起こせない』と言って」
(奇跡、ね)
わたしは、もう一度、その「ご奉納」の行を見た。聖女認定にかかった費用の、不自然な大きさ。教会への、まとまった寄進。――聖女の証は、太陽の温かさで授かったのではない。この、帳簿の一行で、買われていた。
けれど、それを口にはしなかった。彼女の罪を暴くのは、わたしの仕事ではない。数字は、もう、十分に語っている。
レオンハルトは、帳簿に落ちたわたしの視線を追って、ぽつりと言った。
「……この帳面を、お前は、一人で組んでいたんだな。婚約者として、出入りしていただけのお前が。私は、それを、当たり前だと思っていた。気づきもせず」
「ええ。徴税台帳から、舞踏会の費え、ミレーユ様への贈り物まで。ぜんぶ、わたしが両建ての帳で、整えていました」
(あなたが「華がない」と笑っていた、その帳面が、あなたの家を、立たせていたのよ)
口には出さなかった。けれど、彼には、もう、聞こえているようだった。うつむいた肩が、小さく震えていた。
「私は、何も、見ていなかった。お前の、何一つ」
「過ぎたことです」
わたしは、頁を閉じた。恨み言を、今さら並べる気はない。それより、目の前の数字のほうが、よほど切実だ。
「再建には、条件があります」
わたしは、新しい紙に、三つ、書きつけた。
「一つ。散財を、すべて止めること。社交、宝飾、見栄のための費え。今のアーレンス家に、それを賄う力はありません。――身の丈に、戻ってください」
「二つ。借金を、組み直すこと。利の高い借入を、低いものへ。担保割れした分は、領地の一部を手放してでも、返す。痛みを、先送りにしないこと」
「三つ。徴税を、正規の額に戻すこと。あなたの領も、取れるだけ取って、税源を枯らしかけています。種籾まで食べた畑からは、来年、何も実りません」
「税を、下げる……? 今より、収入を、減らせと?」
「ええ。今年は、減ります。けれど、来年、再来年と、納める家が、増えていく。――今の損は、長く返ってくる元手です。わたしが、この辺境でしてきたことと、同じです。あなたの領も、痩せているのではなく、搾り取られて、疲れているだけ。休ませれば、また、力を取り戻します」
ペンを置いて、わたしは彼を見た。
「この三つを呑めるなら、アーレンス家は、立て直せます。三年、いえ、五年はかかりますが、数字の上では、可能です」
レオンハルトの顔に、わずかな希望が差した。けれど、わたしは続けた。
「ただし。――この三つは、どれも『何かを手放す』条件です。華やかさを。誇りを。今までの暮らしを。あなたに、それができますか」
部屋が、静まった。
窓の外で、麦の穂が、さらさらと鳴っている。
レオンハルトは、長いあいだ、その三つの条件を見つめていた。やがて、その口から漏れたのは、答えではなかった。
「……エルナ。お前は、私を、恨んでいるか」
(恨んでいるか、ですって)
わたしは、少しだけ、考えた。
「いいえ。恨んでは、いません。――ただ、あなたが帳簿を読めなかったことを、残念に思っているだけです」
そして、母のそろばんを、そっと懐に戻した。
「お決めになるのは、あなたです、レオンハルト様。わたしは、もう、あなたの家の帳簿番ではありませんから」
彼は、三枚の条件書を握りしめたまま、応接間を出て行った。背中が、ひどく小さく見えた。
その姿を見送りながら、わたしは思った。
(あなたが手放せるかどうかで、決まる。わたしには、もう、どうしてあげることもできない)
数字は、道を示すことはできる。けれど、その道を歩くのは、いつだって、本人なのだ。
第27話、お読みいただきありがとうございます! ついに、頭を下げに来た元婚約者レオンハルトへ、エルナが「再建の条件」を提示しました。恨みでも、施しでもなく、ただ数字で。底の抜けた樽に水を注ぎ続けた半年が、彼に何を残したのか――。そして、聖女ミレーユの「奇跡」の正体も、帳簿の一行に。
レオンハルトは、この条件を呑めるのでしょうか。次回、アーレンス家の運命が決まります。タイトル「黒字にする」の、対となる一言が告げられる回です。
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