第26話:頭を下げに来た人
門の前に立っていたのは、たしかに、レオンハルト・フォン・アーレンスだった。
けれど、わたしの記憶のなかの彼とは、ずいぶん違っていた。
仕立てのよかったはずの外套は、裾が擦り切れている。磨き上げられていた靴は、街道の泥にまみれている。半年前、大広間でわたしを見下ろしたときの、あの自信に満ちた顔。それが今は、やつれて、青白い。
それでも、立ち居振る舞いだけは、染みついた貴族のものだった。みすぼらしさと、消し損ねた驕り。その二つが同居した姿は、なんとも――収支の合わない帳簿のようだった。
「……エルナ」
彼は、わたしを見て、声を詰まらせた。
「久しぶり、だな。元気そうで」
「ご無沙汰しております、レオンハルト様」
わたしは、淑女の礼をした。半年前と、同じように。声も、震えなかった。同じように。
ただ、半年前と違うのは――今度は、この礼に、皮肉の重みがないこと。わたしはもう、この人に、何かを返してやる必要を感じていなかった。
わたしの後ろで、ヴォルフ様が、無言で立っている。腕を組み、岩のように。何も言わないのに、その存在だけで、辺境の壁のように、わたしの背を守っていた。
「……場所を、変えましょうか」
わたしは言った。門前で立ち話をするには、彼の用件は、あまりに重そうだったから。
通したのは、わたしの執務室だった。
帳簿の棚に囲まれた、簡素な部屋。半年前は埃まみれだった台帳が、今は背の順に、きちんと並んでいる。レオンハルトは、その部屋を、落ち着かなげに見回した。彼にとって、帳簿の山は、きっと、いちばん見たくない景色だろう。
「単刀直入に、おっしゃってください」
わたしは、机を挟んで、彼の向かいに座った。
「あなたが、御紋を隠してまで、北の果てへ来た。その理由を」
レオンハルトは、しばらく、言葉を探していた。やがて、絞り出すように、言った。
「アーレンス家を……助けてほしい」
部屋が、静かになった。
「もう、駄目なんだ。借りた金は返せず、領地は荒れ、商人は誰も取り合わない。父は寝込んだまま、起き上がれない。ミレーユは……あの女は、家が傾くと見るや、出ていった。聖女だなんて、嘘っぱちだった。あれは、ただの……」
彼は、そこで言葉を切った。みっともない、と思ったのだろう。
「頼む、エルナ。お前なら、立て直せる。お前は、いつだって、帳簿を読めた。お前が戻ってくれれば――いや、戻れとは言わない。せめて、知恵を貸してくれ。このとおりだ」
そして、レオンハルト・フォン・アーレンス侯爵令息は、頭を、下げた。
かつて、わたしを「華がない、数字をこねるしか能のない女」と、大広間の真ん中で切り捨てた人が。その同じ口で、その同じ相手に、頭を下げている。
ヴォルフ様の腕に、ぴくりと力がこもったのが、気配でわかった。何か言おうとして、けれど、こらえてくれた。これは、わたしの帳簿だから。
わたしは、取り乱さなかった。
胸の奥の、あの棘の刺さっていた場所に、手を当ててみる。痛まなかった。怒りも、嘲りも、湧いてこない。あれほど欲しかったはずの、相手が頭を垂れる瞬間が、目の前にあるのに、わたしの心は、決算書を締めるときのように、ただ静かだった。
罵ってやろうとは、思わなかった。
母が言っていた。ずるは、いちばん高い利のついた借金だ、と。この人は今、その利を、自分で払っている。わたしが手を下すまでもない。
「レオンハルト様」
わたしは、できるだけ穏やかに、口を開いた。
「頭を、お上げください。貴族が、軽々しく下げていいものではありません」
彼が、おそるおそる、顔を上げた。
「一つ、確かめさせてください。あなたは今、『お前が抜けたせいで、家が潰れた』と――心のどこかで、そう思っていらっしゃいませんか」
レオンハルトの目が、揺れた。図星だったのだろう。
「……ち、違うのか」
「違います」
わたしは、静かに言った。声を荒げる必要は、どこにもなかった。
「いいですか。よく、お聞きください。――私が、アーレンス家を潰したのではありません」
机の上で、両手を、そっと組む。
「あなたが、帳簿を読めなかっただけです」
レオンハルトの顔から、すうっと、血の気が引いた。
「わたしが家を出たあの夜、わたしは申し上げました。『この家、半年で潰れますよ』と。来期の作付けが三割減っているのに、交際費は二割増。借り換えた負債の利は、もとの倍。――あれは、呪いでも、嫌がらせでもありません。ただの、計算でした。帳簿に、最初から書いてあったんです。誰にでも、読めるように」
わたしは、棚から一冊の台帳を抜いて、机に置いた。グラウフェルトの、この四半期の決算書だ。
「でも、あなたは読まなかった。読めなかったのではなく、読もうとしなかった。数字をこねる女は不要だと、帳簿ごと、捨てた。――家が傾いたのは、わたしが抜けたからではありません。抜けたあとの穴を、半年、誰も見なかったからです」
「……っ」
「赤字は、天災ではないんです、レオンハルト様」
わたしは、決算書の、いちばん下の一行を、指で示した。半年前は灰色だった土地が、黒字に変わった、その一行を。
「設計ミスです。そして、設計したのは――あなたです」
長い、沈黙があった。
レオンハルトは、うなだれていた。怒鳴り返す気力も、ないらしい。半年前、わたしの言葉の意味がわからず、ただ赤くなって怒鳴った彼は、もういなかった。今の彼は、ようやく、自分が何を捨てたのかを、理解しかけている。それは――罵倒よりも、ずっと重い罰のはずだった。
「では、わたしを……恨んでいるか」
掠れた声で、彼が聞いた。
「いいえ」
わたしは、首を横に振った。本心だった。
「恨んでいたら、わたしは、この部屋にあなたを通しません。門で、追い返しています。――わたしは、財務官です。帳簿の相談に来た人を、まず、追い返さない。それが、流儀ですので」
わたしは、もう一冊、白紙の帳面を取り出した。
そして、ペンに、インクを含ませた。
「アーレンス家を助けるかどうかは、わたしの情では、決めません。情で貸し借りをすれば、帳尻は必ず狂います。――決めるのは、数字です」
ぱちん、と、わたしは母の算盤の玉を、一つ弾いた。
「あなたの家が、まだ立て直せるのか。それとも、もう手遅れなのか。それを、わたしが査定します。査定――帳簿を一行ずつ見て、再建できる見込みがあるかどうかを、見立てること」
レオンハルトが、息をのんだ。
わたしの後ろで、ヴォルフ様が、わずかに身じろぎした。きっと、口を出したいのを、こらえている。けれど、出さない。これはわたしの帳簿だと、最初から、わかってくれているから。その無言の重みが、背中をまっすぐに支えてくれる。半年前、たった一人で大広間に立っていたときとは、違った。
「査定の結果次第では、こう申し上げることになるかもしれません。『現状では、黒字にできません』と。――それでも、よろしいですか」
わたしは、ペン先を、白紙の帳面に下ろした。
「条件を、お話しします。一つ残らず、数字で」
窓の外で、灰の境の風が、低く鳴っていた。
帳簿を、開く。
巡ってきた帳尻を、これから、一の位まで、合わせていく。
第26話、お読みいただきありがとうございます! ついに、エルナとレオンハルトが向き合いました。
「私が、アーレンス家を潰したのではありません。あなたが、帳簿を読めなかっただけです」――エルナは、声を荒げません。罵りもしません。ただ、静かに、数字の事実だけを置きます。手を下すまでもなく、レオンハルトは、自分が何を捨てたのかを、自分で理解させられる。これが、白雪こよみの目指す「上品なざまぁ」です。
そして恨んでいないからこそ、エルナは情で動かない。助けるかどうかは、数字が決める。次回、エルナが差し出す「査定」と「条件」とは――。
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