第25話:巡ってきた帳簿
その報せは、交易の隊商が運んできた。
旧街道を行き来する商人たちは、銭と一緒に、王都の噂も運んでくる。彼らの口は、どんな早馬よりも速い。
「アーレンス侯爵家が、いよいよ危ないらしいですぜ、財務官様」
荷を検めながら、隊商の頭がそう言った。
「ご嫡男のレオンハルト様が、領地を担保に、あちこちから借りに借りて。聖女様――ああ、ミレーユ様でしたか、あのお方の散財も止まらず。とうとう、出入りの商人が、軒並み手を引いたとか」
「……そう」
わたしは、帳面から顔も上げずに、相づちを打った。
少し前、噂を数字で裏取りしたとき、わたしは読んでいた。あの家は、あと二つの四半期で破綻する、と。私怨ではなく、ただの数字として。そして数字は、嘘をつかない。読んだとおりに、川は下流へ流れている。
「それでですね」と隊商の頭が、声をひそめた。「妙な噂も流れてましてね。――近頃、レオンハルト様が、北へ向かう街道の宿で、目撃されているとか」
わたしの指が、止まった。
「北へ?」
「へえ。供も連れず、御紋も隠して。まるで、人目を忍ぶように」
北。供も連れず。御紋も隠して。
この街道の北の果てには、ひとつしか、行き着く場所がない。
灰の境に背を預けた、王国一の――もう元・赤字辺境。グラウフェルト。
(……来るつもり、なのね)
わたしは、ペンを置いた。
その夜、わたしは久しぶりに、母のことを思い出した。
母ヨハンナは、商家の生まれだった。算盤と帳面を持って、伯爵家に嫁いだ人。社交界では「商人あがり」と陰口を叩かれながら、一度も言い返さなかった。代わりに、傾きかけていた実家の財政を、誰にも気づかれぬまま、両建ての帳で立て直してしまった人だ。
幼いわたしに、母はよく言った。
「いいかい、エルナ。貸し借りというのはね、いつか必ず、巡って戻ってくるんだよ」
膝に乗せたわたしの手を取って、母は算盤の玉を弾かせた。
「人に貸したものは、利をつけて返ってくる。人から奪ったものも、利をつけて、いつか取り立てられる。――帳尻は、その場では合わなくても、長い目で見れば、必ず合う。だから、ずるをしてはいけないよ。ずるは、いちばん高い利のついた、借金なんだから」
そのころのわたしには、難しすぎる話だった。
今なら、わかる。
レオンハルトは、わたしという「資産」を、ただで捨てた。価値がないと決めつけて、帳簿から、線を引いて消した。
けれど、捨てた資産は、消えてなくならない。場所を変えて、別の帳簿で、利を生む。わたしが消した畑に種を蒔いたように。彼が捨てたものは、北の果てで黒字になり――彼が抱え込んだものは、王都で赤字になった。
帳尻が、巡って、合おうとしている。
母さん、と心の中で呼んだ。
あなたの言ったとおりだった。ずるは、いちばん高い利のついた、借金だった。
けれど、勝ち誇る気持ちは、湧いてこなかった。
婚約破棄を告げられたあの夜のことを、わたしは思い返してみた。シャンデリアの光。あわれむ視線。「華がない、数字をこねるしか能のない女だ」という、よく通る声。
あのとき、わたしは泣かなかった。代わりに逆算した。けれど――本当のことを言えば、心の底のいちばん深いところには、小さな棘が、刺さったままだった。
「価値がない」。
その四文字は、父にも、継母にも、ずっと言われ続けてきた言葉だった。わたしという人間の、いちばん柔らかいところに、何度も打ち込まれた釘。
それが、今夜、ふっと軽くなっているのに気づいた。
なぜだろう、と考えて。すぐに、答えが浮かんだ。
(――ここに、居てくれ)
世辞の言えない人の、不器用な一言。あれを聞いてから、棘の刺さっていた場所が、少しだけ、塞がった気がしていた。
母の形見の算盤を、わたしは膝に乗せた。玉のすり減った、けれど一つも狂わない算盤。これを抱いて、わたしは王都を発った。あのとき、これだけが、わたしの全財産だった。
「……巡ってきた帳簿に、わたしは、どう向き合えばいいのかしらね。母さん」
算盤は、答えない。
けれど、玉に触れていると、不思議と、心が静まっていく。商人あがりと笑われても、一度も取り乱さなかった母の、まっすぐな背中を思い出す。
実家のことも、隊商は教えていった。
ライゼンタール伯爵家。わたしを「地味で扱いにくい娘」と疎み、辺境へ捨てた家。あの家もまた、揺らいでいるという。
考えてみれば、当然だった。母が亡くなってから、ライゼンタール家の帳簿を陰で繰っていたのは、わたしだ。父は、それを「娘の手すさび」程度にしか思っていなかった。だから、わたしを追い出すとき、何を一緒に追い出したのか、気づきもしなかった。
両建ての帳を、二つの家から、同時に抜いた。アーレンス家と、ライゼンタール家。捨てた側の帳簿が、二つとも傾いていく。それを、わたしは恨みでなく、ただの帳尻として、北の果てから眺めている。
父も、いずれ来るのだろうか。レオンハルトのように、御紋を隠して。
そう思っても、不思議と、心は波立たなかった。来るなら来ればいい。わたしは、誰が来ても、同じことしかしない。帳簿を開いて、数字を読む。それだけだ。
翌朝、わたしはヴォルフ様とギードに、噂のことを話した。
「レオンハルト・フォン・アーレンス。わたしの、元婚約者です。おそらく近いうちに、この辺境を訪ねてきます」
ヴォルフ様の眉が、ぐっと寄った。
「お前を、捨てた男か」
「ええ。供も連れず、御紋も隠して、と。――つまり、公の使者としてではなく、個人として。頭を下げに来る、ということでしょう」
「追い返す」
ヴォルフ様は、即座に言った。低い、押し殺した声で。あの無口な人が、これほど分かりやすく怒気を見せるのは、珍しい。
「お前を、あんな目に遭わせた男だ。この領の門を、またがせる謂れはない」
「お気持ちは、嬉しいです」
わたしは、首を横に振った。
「でも、辺境伯。わたしは、財務官です。誰かが帳簿の相談に来たなら――たとえそれが、どこの誰であっても、まず、話を聞くのが筋です。感情で門を閉ざすのは、両建ての帳の流儀ではありません」
「……お前は」ヴォルフ様が、うなるように言った。「強いな」
「いいえ」
わたしは、母の算盤を、そっと撫でた。
「強いのは、わたしではなく、数字のほうです。わたしは、それを読むだけ」
その三日後の、夕暮れだった。
辺境の門を見張る兵が、館へ駆け込んできた。
「ライゼンタール財務官! 門に、客人が……いや、客人と言っていいのか。みすぼらしい身なりの、けれど、立ち居振る舞いだけはやけに上等な、若い男が一人……あなたに、会わせてくれと」
わたしは、ペンを置いた。
両建ての帳を、静かに閉じる。
(来たわね)
胸は、もう、騒いでいなかった。母の算盤を、わたしは懐に滑り込ませた。こつ、と硬い、頼もしい音がした。
巡ってきた帳簿の、帳尻を合わせる時間だ。
門へ向かうわたしの背を、ヴォルフ様が、無言で追ってきた。
灰の境に、北風が鳴っていた。
第25話、お読みいただきありがとうございます! クライマックスへの、静かな前段です。
エルナのお母様・ヨハンナの言葉――「ずるは、いちばん高い利のついた、借金なんだよ」。捨てた資産は北の果てで黒字になり、抱え込んだものは王都で赤字になる。帳尻が、巡って合おうとしています。
そして、ついにあの人が辺境の門に。供も連れず、御紋も隠して。かつて「華がない」と切り捨てた相手に、レオンハルトは何をしに来たのか――。次回、二人が向き合います。エルナは、取り乱しません。だって彼女が読むのは、感情ではなく、数字ですから。
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