第24話:辺境は、もう赤字じゃない
辺境に来て、初めての秋だった。
館の一室で、わたしは一枚の紙とにらみ合っていた。四半期の、決算書。
決算――ある期間の帳簿を締めて、入ったもの、出たもの、残ったものを、一枚にまとめて、黒字か赤字かを確かめること。
この世界の誰も、そんな面倒なことはしてこなかった。「金の足りた年は豊作、足りなかった年は凶作」。グラウフェルトの帳簿は、ずっとそれだけだった。足りなければ天のせい。足りても、なぜ足りたのか誰も知らない。
だから、わたしは締める。一の位まで。
ぱちん、と母の算盤の玉を弾く。徴税の正常化で逃げ残った領民。死蔵されていた休耕地に蒔いた種。旧街道の交易で得た新しい銭。賦課の不当を正して、中央へ吸い上げられずに済んだ分。――入った数字を、左に積む。
街道整備の費え。種籾の元手。逃散民を呼び戻すための半季の減免。――出た数字を、右に積む。
両建ての帳が、すっと釣り合っていく。そして。
(……ああ)
残高の欄に、わたしは静かにペンを置いた。
赤ではない。
黒だ。
辺境に来て初めて、グラウフェルトの帳簿が、わずかながら黒字に傾いた。種まきの季が、ようやく収穫の季に変わった。短期の損が、長期の黒字に――投資回収を、果たしたのだ。
声を上げたりはしなかった。代わりに、わたしは窓を開けた。
秋の風が入ってくる。冷たい、けれど痩せていない風だ。
館の窓から見下ろす畑は、金色だった。
半年前、ここへ来た日に見たものを、わたしは覚えている。窓の割れた空き家。種を蒔いた跡のない荒れ地。村ごと消えた、逃散の跡。あのとき、この土地は灰色だった。
それが今、麦の穂で埋まっている。風が渡るたび、金の波がうねる。荒れ地だった畑に、人が戻り、種が落ち、穂が実った。帳簿の上のただの数字が、こうして外の景色になる。それが、わたしには何よりの黒字に見えた。
「エルナ様ーっ!」
下から、高い声が飛んできた。ニコだ。村の子。両手で何かを抱えている。
「見て見て、おいらが数えたんだ! こっちの畑、ぜんぶで麦の束が八十! 玉っころで、ちゃんと数えたんだから!」
「八十? それは大したものね。間違いはない?」
「ないよ! だって、一の位まで合わせたもん!」
わたしの口癖を、すっかり覚えてしまったらしい。思わず笑ってしまった。
そのニコの後ろから、村長のマルタが歩いてくる。その隣に、見慣れない一家がいた。やせた頬の、けれど目だけは生き生きとした夫婦と、幼い子が二人。
「財務官様」とマルタが言った。「東の村のヴェルナーんとこだ。三年前に逃散して、隣領で日傭いをしてたんだがね。――税が下がって、畑がまた回るって聞いて、戻ってきたのさ」
「お、お役人様」と夫のほうが、慌てて頭を下げた。「おらたち、逃げた身です。今さら、戻ってきて、いいもんかどうか……」
逃散民の、帰還。
帳簿の上では、「失われた税源」がひとつ、戻ってきたということ。けれど目の前にいるのは、数字ではなかった。やせた頬と、生き直そうとする目だ。
「お帰りなさい」
わたしは言った。
「東の村の畑は、まだ半分が空いています。あなたが耕してくださるなら、領としては助かります。――半年は、税を軽くしましょう。畑が育つまでの、元手です。逃げた咎なんて、帳簿のどこにも書いてありませんよ」
夫婦が、顔を見合わせた。それから、奥さんのほうが、いきなり袖で顔を覆った。
「……ありがてえ。ありがてえです」
泣かせるつもりは、なかったのだけれど。わたしは少し、困った。困りながら、胸の奥が、じんと温かくなるのを感じていた。
その夜の食卓を、わたしは忘れないと思う。
半年前、初めてこの館で出されたのは、硬いパンと、薄い豆のスープだった。領民の分を削って出してくれたのだと、ひと目でわかる食卓だった。
今夜は、違った。
焼きたての白いパン。秋野菜の煮込み。そして、小さいけれど、肉の一切れ。
「灰の境の麓で、鹿が獲れてな」と、ギードがぶっきらぼうに言う。「狩りの分け前だ。……たまには、令嬢様も肉を食え。算盤ばかり弾いてると、痩せる」
「ギード様こそ、お痩せになったのでは? 心労で」
「誰のせいだと思っとる」
老副官が、ふん、と鼻を鳴らした。けれど、その目は笑っている。
食卓の温かさは、帳簿には載らない。けれど、わたしの両建ての帳の、どこか一番上の行に、見えないインクで書いてある気がした。この領は、もう飢えていない、と。
食事のあと、わたしは決算書を手に、辺境伯の執務室を訪ねた。
ヴォルフ様は、机に向かって、何かの帳面を――今度はちゃんと、上下を正しく持って――にらんでいた。算術が苦手な人が、苦手なりに、覚えようとしている。それだけのことが、わたしには少しおかしくて、少し嬉しい。
「辺境伯。四半期の決算が、出ました」
わたしは紙を差し出した。
「結論だけ申し上げます。――グラウフェルトは、黒字です。わずかですが。辺境は、もう赤字じゃありません」
ヴォルフ様は、その紙を、長いこと見ていた。数字が読めるわけではないのだろう。けれど、一番下の、わたしが指した一行だけを、じっと見ていた。
「……黒字、か」
低い声だった。
「父が、ずっと赤字だと思い込んでいたものを。搾り取られて、抗うこともできずに、赤字だと諦めていたものを。――お前は、半年で、黒に変えた」
彼は、紙を置いた。それから、荒れた手で、自分の顔をぬぐった。あの日――わたしが初めて「これは、黒字にできます」と告げた朝と、同じ仕草で。
「エルナ」
名前を、呼ばれた。役職でも、家名でもなく。
「変なことを、聞く。流してくれていい」
ヴォルフ様は、わたしから目をそらした。この、魔物境を一身に背負う武人が、なぜか、ひどく不器用な顔をしていた。
「お前は、いずれ、王都に帰るのか。家名を、取り戻して。……お前ほどの才なら、こんな北の果てより、ふさわしい場所が、いくらでも」
(――何を、言い出すのかしら、この人は)
「お前がいなければ、この景色はなかった」
彼は、窓の外の、金色の畑を見ていた。
「だが、それとは別に……俺は、お前に。――いや」
言葉を、一度のみ込んで。ヴォルフ様は、ようやく、まっすぐにわたしを見た。
「ここに、居てくれ」
たった、それだけだった。
世辞も、飾りもない。求婚でも、口説き文句でもない。ただ、不器用な男が、不器用なまま、絞り出した一言。
「この土地に、お前が要る。――俺が、お前に、居てほしい」
胸の奥で、何かが、ぱちん、と小さな音を立てた。母の算盤の玉が、ひとつ、動いたみたいに。
「……華のない、数字をこねるしか能のない女ですよ。わたしは」
声が、少しだけ震えた。皮肉のつもりだったのに、うまく皮肉にならなかった。
「その女が、この土地を黒字にした」
ヴォルフ様は、即座に言った。世辞を言えない人の、世辞ではない言葉で。
わたしは、答えを、返せなかった。
代わりに、決算書をもう一度、彼の机にそっと置いて、「……お返事は、次の四半期に」とだけ言って、執務室を出た。
廊下で、わたしは胸を押さえた。算盤の玉が、まだ、騒いでいる。
(落ち着きなさい、エルナ。あなたは、自分の価値を、数字で証明すると決めたのでしょう)
そう。証明したのだ。
ただ――その価値ごと、要ると言ってくれる人が、いるなんて。
そんな黒字は、どの帳簿にも、載っていなかった。
第24話、お読みいただきありがとうございます! ついに、ついに辺境が黒字になりました。灰色だった荒れ地が金色の畑に、薄い豆のスープが肉の一切れに――半年の積み重ねが、ひとつの景色になりました。
そして、ヴォルフの「ここに居てくれ」。世辞の言えない人の、精一杯の一言です。エルナの「お返事は、次の四半期に」、果たしてどうなるのか……。
次回は、遠い王都から、ある人物がこの辺境へ向かってきます。かつてエルナを「華がない」と切り捨てた、あの人が――。巡ってきた帳簿の、帳尻が合うときが近づいています。
面白いと思っていただけたら、ブックマーク・★評価で応援していただけると、とても励みになります!




