第23話:聖女様の、聖なる赤字
聖女、という言葉を、わたしはあまり好きではない。
奇跡を起こす。人を癒す。光をまとう。――結構なことだ。けれど、その「聖なるもの」が、いったい誰の財布から出ているのか。それを、誰も問わない。
わたしは、問う。
なぜなら、聖なるものにも、値段があるからだ。
きっかけは、また、交易商人の帳面だった。
王都との行き来が増えて、辺境には、いろいろな数字が流れ込んでくる。相場、景気、そして――誰が、何に、いくら使ったか、という、噂のような記録。
「令嬢様。これ、面白いものが手に入ったぞ」
ギードが、にやりと笑って、一枚の写しを差し出してきた。
「王都の宝飾商と、香油商の、売り上げ帳の写しだ。商人どもが、相場の話のついでに、こぼしていきよった。――この半年で、一人の客に、ずいぶんと売ったらしい」
わたしは、その写しに目を落とした。
そして、ひとつの名前を見つけた。
ミレーユ・ロンバール。自称・聖女。レオンハルト様が、わたしを捨ててまで選んだ、あの令嬢。
支払いの記録が、ずらりと並んでいる。
聖油と称した、高価な香油。聖女の証だという、白い絹の祭服――それも、何着も。奇跡の祈祷に必要だという、宝石をあしらった聖具。慈善の名目で配られた、施し物。
わたしは、ぱちり、と玉を弾いた。
(半年で……これは、ちょっとした村が、一年食べていける額ね)
そして、その支払いの大半が、アーレンス侯爵家の名で立て替えられていた。
つまり、こういうことだ。
ミレーユ様の「聖なる」暮らしは、聖なる力で賄われていたのではない。レオンハルト様の――いいえ、もう底をつきかけている、アーレンス家の財布から、出ていた。
聖油も、祭服も、奇跡の聖具も、すべて。
帳簿の上では、それは、ただの「出ていくお金」だ。聖なる赤字。返ってくることのない、まっさらな浪費。
「ギードさん。もう一つ、気になることが」
わたしは、別の記録を指でなぞった。
「ミレーユ様が『聖女』として教会に認められた、その時期です。商人の帳面によれば、ちょうどその少し前に――アーレンス家から、教会へ、たいそうな額の『寄進』が流れています」
ギードの眉が、上がった。
「寄進、か。……信心深いことだな」
「ええ。とても信心深い。聖女に認められる、ちょうど都合のいい時期に、ちょうど都合のいい額が」
わたしは、言葉を選んだ。これは、まだ、状況証拠だ。裏帳簿の現物を押さえたわけではない。けれど――数字の並びは、雄弁だった。
寄進があり、その直後に、認定がある。
しかも、その寄進の額は、ひとつではなかった。認定の前に一度、認定が世に披露された日にもう一度。商人の帳面には、教会に出入りする金細工師への、まとまった支払いまで記されていた。聖女の冠を、あつらえたのだろう。
それを、世間は「信心への報い」と呼ぶ。
わたしは、別の名前で呼ぶ。
(聖女の称号が……金で、買われたのだとしたら)
代官バルトロトの中抜きと、構図は同じだ。本来あるべきでないお金の流れが、二つの帳面の間を、こっそりと渡っていく。ただ、今度のそれは、領民の税ではなく、「聖なるもの」の皮をかぶっている。
けれど、わたしは、何もしない。
あの夜、レオンハルト様の隣で微笑んでいた令嬢を、暴いてやろうとも、引きずり下ろそうとも思わない。
ただ、数字が、そこにある。
聖女様の聖なる暮らしは、傾いた家の最後の蓄えを食い潰し、その家を、いっそう速く、破綻へ近づけている。それは、わたしが仕組んだことではない。彼女が浪費し、彼が払い続けた。ただ、それだけのことだ。
「……エルナ」
ヴォルフ様が、写しを覗き込む。相変わらず、逆さだ。
「この、ミレーユとかいう娘は。――聖女、なのか」
「さあ」
わたしは、肩をすくめた。
「聖女かどうかは、わたしには分かりません。わたしに分かるのは、帳簿のことだけです。そして帳簿は、こう言っています。――この方は、入ってくるお金より、ずっと多くを使う。返ってくる当てのないものに。それを、聖なる、と呼ぶなら」
わたしは、玉を一つ、戻した。
「これは、聖なる赤字です」
ヴォルフ様が、ふっと、噴き出した。
それから、辺境の市の話が、館に伝わってきた。
王都から下ってくる商人が増えるほどに、王都の話も、辺境へ流れてくる。そして、その話は、半年前とは、少しずつ変わっていた。
――アーレンス家のレオンハルト様は、聖女にうつつを抜かして、家を傾けたらしい。
――あの婚約破棄された令嬢、エルナ様のほうが、よほど家を支えていたそうだ。
――華がない、と切り捨てたが。なくしてみたら、それが家の屋台骨だったとは。
噂は、潮目が変わる。
半年前、王都の人々は、太陽のような聖女を選んだレオンハルト様を、賢明だとほめそやした。今、同じ人々が、首をかしげている。彼は、何を選び、何を捨てたのか、と。
わたしは、その噂を、ニコに算術を教えながら、半分、聞き流していた。
「お姉ちゃん、王都の聖女さまって、奇跡を起こせるの?」
ニコが、無邪気に尋ねる。
「さあ。どうかしらね」
「お姉ちゃんは? 玉っころで、奇跡、起こせる?」
わたしは、少し笑った。
「奇跡は、起こせないわ。でもね、ニコ。痩せた畑を実らせて、逃げた人を呼び戻して、空っぽの倉を満たすことは――できるの。ゆっくり、ひとつずつなら。それは、奇跡じゃない。ただの、計算よ」
奇跡は、いらない。光をまとう必要も、人を癒す手も、いらない。
わたしの手の中にあるのは、玉のすり減った、母のそろばん一つ。けれど、それで足りる。
世間が、ようやく、気づきはじめていた。
捨てられたのは、本当は、どちらだったのか。
そして、太陽のような聖女と、数字をこねる女と――どちらが、家を温められたのか。
(数字は、最初から、ぜんぶ言っていたのに)
その月の終わり、辺境に、一つの知らせが届いた。
王都の、出入りの商人たちが、とうとう、アーレンス家への品の卸しを、そろって取りやめたという。つけの払いが、完全に止まったのだ。
家を支える、お金の流れ。その血が、止まった。
信用を失った家は、もう、舞踏会も開けない。聖油も買えない。聖女の祭服も、仕立てられない。
アーレンス侯爵家は――公に、破綻の淵へ、踏み出した。
わたしは、館の窓から、南の空を見ていた。
胸は、すかない。けれど、ひどく、静かだった。
(さあ。蓄えは、底をつきかけている。次に動くのは、あなたたちの番よ)
頭を下げに来るのか。最後まで、傲慢を貫くのか。
どちらにせよ、わたしは、数字の答えを、ただ差し出すだけだ。
母のそろばんが、窓辺の光の中で、静かに、玉を光らせていた。
第23話、お読みいただきありがとうございます! 「聖女様の、聖なる赤字」――返ってくる当てのない浪費を、エルナはそう呼びました。ミレーユの豪奢な暮らしと、聖女認定をめぐる金の疑惑。そのお金は、すべて、傾いたアーレンス家から出ていたのです。
そして、世間の潮目が変わりはじめます。「捨てられたのは、本当は、どちらだったのか」。エルナは何もしていません。ただ、数字が、最初からぜんぶ言っていた。それに、世間がようやく追いついただけ。
アーレンス家は、ついに公の破綻危機へ。次回からは、いよいよ物語が大きく動きます。辺境の決算、そして――頭を下げに来る人が。
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