第22話:お戻りください、という命令
使者は、三日後にやってきた。
立派な馬車だった。金の飾りに、磨き上げた車輪。傾いている家ほど、見栄えに金をかけるものだ。
(あの馬車、まだ持っていたのね。……いいえ、馬車を売る金より、見栄を取ったのね。それでこそアーレンス家だわ)
降りてきたのは、仕立ての良い上着を着た、四十がらみの男だった。アーレンス家の家令――かつて、わたしを「行儀見習いの居候令嬢」のように扱った、あの男だ。
辺境伯の館の、簡素な広間。男は、ぐるりと室内を見回し、あからさまに鼻を鳴らした。
「これはこれは。エルナ様も、ずいぶんと……鄙びたところにお移りになられて」
「ようこそ、辺境へ。遠路、お疲れさまでした」
わたしは、淑女の礼をした。隣には、ヴォルフ様が、腕を組んで立っている。ギードも、戸口に控えていた。
家令は、わたしの礼を当然のように受け、本題を切り出した。
「単刀直入に申し上げます。レオンハルト様の、ご命令です。――エルナ様。アーレンス家へ、お戻りください」
戻れ、ではない。お戻りください、と。
けれど、言葉は丁寧でも、それは命令だった。頭を下げて頼むのではなく、上から、当然の権利のように差し出された、命令。
「家の財がいささか……回りが悪くなっておりましてな。やはり、あなた様の帳簿の腕が要る、とのことです。婚約は解消されましたが、なに、それはそれ。あなた様も、こんな辺境で埃をかぶっているより、王都の侯爵家でお役に立つ方が、よほど――」
「お断りします」
わたしは、静かに、けれどはっきりと言った。
家令の言葉が、止まった。
「……は?」
「お断りします、と申し上げました。わたしは、グラウフェルト辺境伯領の、財務官です。ここに、仕事があります。王都へ戻るつもりは、ありません」
家令の顔が、みるみる赤くなった。
「な……っ。あなた、自分が何を言っているのか、分かっておられるのか! 侯爵家の、ご嫡男の、直々のご命令ですぞ! 一介の――辺境の、徴税官ふぜいが!」
ふぜい。
その言葉に、ヴォルフ様の腕が、わずかに動いた。けれど、わたしは目で制した。まだ、いい。
「家令殿」
わたしは、机の上の帳面に、そっと手を置いた。
「一つ、お尋ねします。わたしが王都であの家の帳簿を整えていた六年間、わたしに支払われた、報酬の額をご存じですか」
「報酬……? そのようなもの、婚約者として当然の――」
「ええ。一グルデンも、いただいていません」
わたしは、口の端で笑った。
「ご令嬢の務め、家の務め。そう言われて、わたしはただ働きで、あの家の帳尻を合わせていました。回収の見込みのない貸付に手当てを積み、借金を組み替え、払いの順番を繰って。――誰も、その仕事に値などつけなかった。『華がない、数字をこねる女』の手すさび、くらいに思っていたでしょう」
家令は、何も言わない。
「ですが、今は違います。わたしの仕事には、値がついています。辺境伯が、それに見合う俸給を、きちんと払ってくださっている。――家令殿。ものの値打ちというのは、それを失って、初めて分かるものなんですよ」
タダで使っていたものほど、なくして初めて、その値が分かる。
アーレンス家は、ただで手に入る帳簿番を、ただだからと軽んじて、捨てた。そして今、同じものを、また「ただで」呼び戻そうとしている。値がついた今になっても、まだ、ただで使えると思っている。
「ですから、お戻りください、というご命令には、応じられません。仕事には、値がある。――それを認められない方のために、わたしは、もう帳面を開きません」
「き、貴様……ただの令嬢の分際で! レオンハルト様に、なんと申し上げれば――」
「待て」
低い声が、家令の言葉を断ち切った。
ヴォルフ様だった。
一歩、前に出る。背は頭一つ分高く、肩幅は広い。剣を抜いたわけでもない。声を荒げたわけでもない。ただ、そこに立っただけで、家令は半歩、後ずさった。
「この館で、財務官を『ふぜい』と呼ぶのは、許さん」
「へ、辺境伯――」
「お前たちは、宝を捨てた」
ヴォルフ様は、静かに言った。けれど、その静かさが、どんな怒鳴り声よりも重かった。
「数字をこねる女、か。……俺には、その『こねる』とやらが、村の子らの腹を満たした。逃げた領民を呼び戻した。痩せた土地に、種を蒔いた。お前たちが捨てた女は、この辺境を、生き返らせている」
彼は、わたしの方を、ちらりと見た。それから、また家令へ。
「その人を、ただで呼び戻そうという。……お前たちは、自分が何を捨てたのか、いまだに分かっていない。帰って、伝えろ。――グラウフェルトの財務官は、誰にも渡さん、と」
広間が、しんと静まった。
家令は、口をぱくぱくとさせ、それから、捨て台詞のように吐いた。
「……っ、後悔なさいますぞ! このことは、必ずレオンハルト様に……!」
「ええ、どうぞお伝えください」
わたしは、最後にもう一度、淑女の礼をした。
「『あと二四半期です』と。レオンハルト様なら、その意味を――いいえ、きっと、お分かりにならないでしょうね。それも、含めて、お伝えくださいませ」
金の飾りの馬車は、慌ただしく去っていった。
土埃の向こうに、それが消えてから、わたしは、ふう、と息を吐いた。
「……ヴォルフ様。少し、言いすぎでは」
「言い足りん」
むすっとした顔で、彼は言う。けれど、その耳が、ほんの少し赤い。
「……すまん。出しゃばった。お前は、ひとりでも、あの男を追い返せただろうに」
「いいえ」
わたしは、首を振った。胸の奥が、じんわりと、温かかった。
(追い返すことは、できたわ。でも――誰かが「お前は宝だ」と、あの人たちに言ってくれたのは。怒ってくれたのは。……生まれて、初めてだったの)
「……ありがとうございます。とても、心強かったです」
ヴォルフ様は、ばつが悪そうに、視線をそらした。荒れた手で、首の後ろを掻く。
「俺は……世辞が、言えん。お前を慰める、うまい言葉も知らん。だが」
彼は、ぽつりと続けた。
「あの男の言う『ふぜい』が、本気で、許せなかった。それだけは、嘘じゃない」
それで、十分だった。飾った言葉より、よほど。
それから彼は、ぼそりと、話を変えた。
「腹が、減ったな。今夜は、何だ」
「鶏が、入ったそうですよ。市で、買えるようになったんです」
質素だった食卓に、いつのまにか、湯気の立つ鶏のスープが並ぶようになっていた。
わたしは、母のそろばんを、そっと棚に戻した。
王都の帳尻は、また一つ、合わせ手を失った。
そして辺境の帳簿は、今夜も、静かに黒字へ向かっている。
第22話、お読みいただきありがとうございます! 反省のかけらもない使者の、高圧的な「お戻りください」。それを、エルナは淡々と、けれど芯の通った言葉で断ります。「ただで使っていたものほど、失って初めて値が分かる」――これは、エルナ自身の物語そのものですね。
そして、ヴォルフ。「お前たちは、宝を捨てた」。声を荒げず、ただ静かに庇う。エルナの「自分は愛されない」という長年の傷が、少しずつ、溶けはじめています。誰かが「お前は宝だ」と怒ってくれた――それが、初めてだった。
要求は通らず、アーレンス家はさらに傾きます。次回、いよいよ「聖女様」の浪費と、聖女認定をめぐる金の疑惑が、表に出てきます。
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