第20話:捨てた側の帳尻
市の立つ日の辺境は、にぎやかだ。
半年前には、考えられなかったことだ。痩せた畑、空き家ばかりの村、誰も種を蒔かない荒れ地。あの灰色の土地に、今は人の声が戻っている。
過剰徴税を止め、休耕地に種を蒔き、眠っていた旧街道の交易を開いて――数字が、少しずつ、土地を温めはじめていた。
「お姉ちゃん、見て! あの干し肉、去年はなかったやつだよ!」
隣を歩くニコが、露店を指さしてはしゃぐ。母の形見のそろばんを持たせてやると、この子はもう、玉を弾く真似がうまくなっていた。
「露店が、十二。先月より三つ増えたわね」
(出店の数は、嘘をつかない。人が、ここで売れば食べていけると思い始めた。――黒字の芽が、ちゃんと根を張っている)
そんな市の片隅で、わたしはひとりの行商人の声を、ふと拾った。
王都から下ってきたらしい、毛織物の商人だった。なじみの店主を相手に、声をひそめているつもりで、ちっともひそめていない。
「――そりゃあ、あんた。今、王都でアーレンス侯爵家に品を卸すやつぁ、馬鹿を見るって評判さ」
その名前に、わたしの指が、ほんの少し止まった。
アーレンス侯爵家。わたしを「華がない、数字をこねる女」と切り捨てた、元婚約者レオンハルト様の家。
「代金の払いが、半年も滞ってるって話でな。立派な舞踏会は開くくせに、出入りの商人にはつけばかり。とうとう先月、宝石商が品を引き上げたとさ。『侯爵家のお名前では、もう品はお出しできません』ってな」
店主が、まさか、と笑う。あれだけの大貴族が、と。
「大貴族だからって、財布の底は見えてるのさ。なんでも、急に帳面が回らなくなったらしくてね。それまでは、ちゃーんと払いのいいお家だったんだと。それが、ある時を境に、ぱったり」
ある時を境に。
わたしは、口の端だけで、そっと笑った。
(ええ。半年前の、ある夜会を境に、でしょう)
帳尻、という言葉がある。
入ってくるお金と、出ていくお金の――最後の、差。商人が一日の終わりに、銭箱を覗いて合わせる、あの差だ。
アーレンス家の帳尻は、ずっと、合っていた。立派な舞踏会も、ミレーユ様への贈り物も、無理のある借り入れも、すべて。
なぜなら、わたしが合わせていたからだ。
回収の見込みのない貸付には、こっそり手当てを積み、利の高い借金は安いものに組み替え、払いの順番を一日単位で繰って、出入りの商人の機嫌を損ねないように――誰にも気づかれないところで、わたしは穴という穴を、両建ての帳で埋めつづけていた。
その栓が、抜けた。
(つけが効くのは、信用があるうちだけ。信用は、きちんと払う家にしか宿らない。一度払いが滞れば、商人は品を出さなくなる。品が来なければ、舞踏会も開けない。――帳尻の合わない家は、まず、出入りの商人から見限られる)
それは、わたしが手を下したことではない。
ただ、わたしという「栓」を、あの人たちが自分で抜いた。それだけのことだ。
「お姉ちゃん? どうかした?」
ニコが、わたしの顔を覗き込む。手の中のそろばんを、得意げに掲げて。
「ねえ、見て。おいら、ここまで数えられるようになったよ。露店の干し肉、ぜんぶで、ええと――」
「八つ。よくできました」
わたしは、この子の頭を撫でた。
半年前、この子の村は、税で搾り取られて、明日のパンも危うかった。今、この子は、玉っころで干し肉を数えている。――それが、黒字というものだ。誰かの食卓が、ほんの少し、温かくなること。
そして同じころ、王都のどこかでは、立派な侯爵家の食卓から、湯気が一つずつ、消えているのだろう。
「なんでもないわ。さあ、豆を買って帰りましょう。今夜は、ギードさんが豆を多めにって言ってたから」
館へ戻ると、ギードが渋い顔で待っていた。
「令嬢様。中央から、書状だ」
差し出された封蝋に、わたしは目を細めた。見覚えのない紋章。けれど、その下に記された差出人の肩書きが、館の空気を一段、重くしていた。
――王国財務卿、ヴァルデマール。
「財務卿……?」ヴォルフ様が、奥から出てくる。「ローデリヒの、上の」
中央財務伯ローデリヒは、先の監査対決で失墜した。辺境を搾り取っていた、あの慇懃な男。その、さらに上にいる人物。王国の徴税のすべてを束ねる、頂点。
わたしは封を切り、文面に目を走らせた。
文章は、丁寧だった。丁寧すぎるほどに。
『北辺グラウフェルトが、近時、目覚ましき税収の改善を見たと聞き及ぶ。まことに慶賀の至り。ついては、その手法――いかなる帳簿により、いかなる仕組みにより、かくも短期に黒字へ転じたか。中央の学びのため、詳細なる記録の提出を求む』
「……ずいぶんと、ご親切なこと」
わたしは、文面の裏を逆算した。
(学びのため、ですって。中央が、辺境の手法を、学びたい? ――いいえ。これは、品定めよ)
ローデリヒという駒が、わたしのせいで盤から消えた。中央にとって、辺境は「搾り取れる草刈り場」だったはずだ。それが急に黒字を出し、しかも自分たちの中抜きの構造まで暴いてみせた。
頂点に立つ者にとって、それは「慶賀」ではない。
(厄介な数字を読む娘が、辺境にいる。――そう、書き留められたのよ。わたしは今、王都の頂点から、一度、名前を見られた)
「令嬢様」
ギードが、声をひそめた。先代の頃から中央を見てきた、この老副官の顔に、めずらしく緊張があった。
「ヴァルデマール財務卿……噂は、聞いている。ローデリヒごとき、あの方にとっては、使い捨ての駒の一つだったそうだ。中央の徴税を、すべて束ねている。逆らった地方領主が、いつのまにか取り潰されて消えた――そんな話が、いくつもある。慇懃なローデリヒが可愛く見えるほどの、底の知れん御方だと」
それを聞いて、ヴォルフ様の眉が、険しくなった。
「ヴォルフ様」
わたしは、書状をそっと畳んだ。
「この記録、出すには出します。けれど、当たり障りのない、表向きのものだけ。両建ての帳の、肝心なところは書きません。――辺境がどうやって黒字を出したか、その『仕組み』まで渡せば、次は、同じ仕組みで、もっと巧妙に搾り取られるだけです」
「……敵、なのか。その、財務卿というのは」
ヴォルフ様が、低く問う。
「今は、まだ。けれど」
わたしは、灰の境の方角を――ではなく、南の、王都のある空を見た。
「捨てた側の帳尻は、もう合わなくなっている。それを直せる人間は、この国に、そう何人もいません。その何人かのうちのひとりが、辺境にいる。――それを、あの方は、たぶん面白く思っていない」
ヴォルフ様は、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「お前を、誰にも飛ばさせはしない。もう、二度と」
不器用な、けれどまっすぐな声だった。
わたしは、母のそろばんに、そっと指を置いた。
(ありがとう、辺境伯。――でも、心配はいりません。今度こそ、わたしは、捨てられる側じゃない)
王都の空の下で、二つの帳尻が、静かに動きはじめていた。
ひとつは、傾きながら。
ひとつは、立ち上がりながら。
第20話、お読みいただきありがとうございます! いよいよ、エルナを捨てた側――アーレンス侯爵家の凋落が、王都の噂として表に出てきました。エルナが抜けたことで、帳尻が合わなくなっていく。彼女は何もしていません。ただ、栓を抜いたのは、向こうなんです。
そして、中央の頂点・財務卿ヴァルデマール。彼の影が、静かに辺境を見はじめました。けれど、エルナはもう、黙って飛ばされる令嬢ではありません。
次回、エルナは噂の「裏」を、数字で取ります。あの家、あと何四半期もつのか――。
面白いと思っていただけたら、ブックマーク・★評価で応援していただけると、とても励みになります!




